S-93 「また狩り時間が始まるのかぁ!」
バイレスリーヴ領南/隠れ山/クルーア廃坑外/木々が混じるなだらかな傾斜地【視点:常闇の手ルガルフ】
夜の帳が深まる隠れ山に、突如として、音もなく漆黒の影が舞い降りた。
月光すら届かぬような深い闇を裂いて、その人影は、ゼク班の戦場の傍、クルーア廃坑の前に静かに着地する。
ボスと俺がその場に辿り着いた頃には、スノゥシャ班もその者の異常な気配を察知し、谷の上から降りてきていた。
「あれ、お前たち…エリュトロンの眷属じゃないよな?」
彼はボスの方を一瞥し、そう問いかけた。
その声は、この夜の血みどろの舞台に嫌に似合うもので、不躾でありながら、どこか貴族的な余裕を持っていた。その言葉や態度の端々から、常人とは異なる傲慢さが滲み出ている。
その者の特徴は、月の光を吸い込むような艶やかな黒髪、凍えるほどに白い肌、そして暗闇で妖しく輝く赤い瞳。羽もないのに空を飛行できる人間など、この世で一つしか存在しない。
(《吸血種》…まさか、こんな場所に…何故現れた?)
「てことは…ははは、もしかして、全滅か、百影のザコどもは」
大きな口を開けて笑った。その口内は、夜にもかかわらず、真紅の血の色のように妙に赤く見えた。そして、その存在は、禍々しいオーラを放つ赤い弓を手にしている。
(あの弓の形…そして、この禍々しい魔力…。この残忍な笑い声も…)
俺の赤黒い記憶の底に刻まれた、ある夜の光景が、薄皮を剥ぐように克明によみがえる。それは、燃え盛る村の炎の色。幼馴染のクーカとゾラの鮮血の色だ。記憶の中の影と目の前の男が、恐ろしいほどに重なり合い、俺は息を詰まらせた。
「しかし…東岸において俺は、とことん犬っころに縁があるようだ。また狩り時間が始まるのかぁ!」
「犬っころ」…その侮蔑的な響きが、俺の脳髄を雷のように貫いた。
(間違いない。あの夜、俺たちを「犬っころ」と呼び、一人一人殺していった、あの声だ!この男こそ、全てを奪った元凶だ!)
なんの前触れもなく現れたそれに、怒りは熱病のように全身を駆け巡り、肌の下で血管が怒りに脈動する。クーカとゾラ…両親と村の皆を殺した奴は…間違いなく、この目の前にいる!
全身の毛が総毛立ち、理性が消し飛びそうになる。無意識に牙をむき出しにし、喉の奥から唸り声を上げていた。
ボスは、俺の獣じみた殺気から全てを察した。
「ルガルフ。その者が、貴様の…我々の倒すべき敵なのだな!?」
「はい…。奴です。間違いなく、奴が俺たちの村を襲った集団の指揮官だ!」
震えるこぶしを握りしめる。歯をむき出しにして魂から叫んだ。
「ウォォォォン!!」
隠れ山に反響する俺の遠吠えは、夜の静寂を引き裂いた。
(父さん、母さん、クーカ、ゾラ…!今こそ、この憎悪を力に!!)
その刹那、俺の身体は己の意識という鎖を断ち切り、ただ「敵を殺す」という獣の本能に全てを委ねた。全身の銀色の毛は逆立ち、瞳は復讐の炎に焼かれたように黄色く爛々(らんらん)と輝き、理性では抗えぬ衝動が支配する。
「待て!ルガルフ!」
ボスの鋭い制止が背後で木霊する。だが、その声はもはや、激流に飲まれる小石のように、俺を制止することはできない。
いや、止まることなど、最初から許されていない。俺は、この瞬間、この一撃を奴に叩き込むためだけに、生きてきたのだから。
「グルルルァアアアッ!!」
最高速度で吸血種との距離を詰めながら、怒りに燃える右腕の筋肉が異常なまでに膨張した。その全身全霊を賭けた一撃は、憎しみを純粋な破壊力へと昇華させ、渾身の力で眼前へと振り抜かれた。
ザシュッ!!
肉を断つ確かな手ごたえ。だが、それは求める感触ではなかった。
視界の端に、生々しい百影の死体が、その吸血種の盾となるように滑り込んできたのを捉える。俺が切り裂いたのは、その亡者の胴体だった。憎き仇の身体に爪が届かなかった虚無感が、全身の熱を奪い去り、俺の動きは一瞬停止する。
奴は、崩れ行く死体を満足げに見届け、口角を上げた。
「おいおい。俺一人に、お前たちはこの多数。さすがに卑怯じゃね?これくらいは許されるよなぁ?」
その吸血種は、腰に吊るした、黒い鉄製のカンテラを掲げた。
カンテラ内部の灯火は、怪しい緑色の光を揺らめかせ、周囲の闇を不気味に照らし出す。その怪しい光によって、周囲の岩岩の影は伸び、不気味な情景を際立たせた。
それは、俺たちの組織が保有する伝説のアーティファクト《魔封じのカンテラ》に酷似している。
おそらく古の邪術師、《冥府のマルヴ》が作り出した特殊な魔力を秘めた《カンテラシリーズ》の一つだろう。それらカンテラは、油の芯に火を燈すことで、カンテラを構成する鋼材に練りこまれた魔鉱石が、使用者や周囲の魔力と反応・共鳴し、禁術に値する魔法効果を発揮させるというもの。
そして、あのカンテラの効果とは…
「オォォォオ…」
無数の魂が呻くような低い音が、谷の地形に木霊した。




