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S-86 「初対面では笑顔を絶やすな」

バイレスリーヴ領南/隠れベイン・ファラハ【視点:世界(観測者)】


 隠れベイン・ファラハの麓、谷底の奥まった場所に、ひっそりと口を開けている打ち捨てられた鉱山、クルーア廃坑。


 その入口がかろうじて窺える岩の影に、薄雲が張る夜の闇に紛れて一人の男が近づいていく。


 夜風が草木をかすかに揺らすだけの静寂の中、その男が岩に近づくと、岩の影と一体化するように隠れていた男が顔を出した。


「交代だ」


 岩陰に潜んでいた男は、極めてゆっくりと身を起こし、闇の中から一歩踏み出した。彼の眼は、未だ廃坑の入口を睨みつけて離さない。


「動きは、何かあったか」


 監視を終えた男は、極度に低い声で答えながら、肩の緊張をほぐそうと深呼吸をした。しかし、彼の身体はすぐにまた硬直する。


「二、三人で出入りをしている。おそらく食料の補充だろう。それ以外に動きはない。上からの指示は」


 交代に来た男は、腰の短剣に手をかけたまま、岩陰に入る。彼の視線もまた、常に廃坑の周辺を走査している。


「変わらず、『気づかれないよう見張れ』とだけだ。いつものごとく、俺たちには奴らが何者で、何のためにあの廃坑にいるのかすら知らされない」


 男は舌打ちにも似た微かな息を吐き出し、胸中の不満を飲み込んだ。


「知りたくもないがな。ただ、多少の金と、常闇の主からの寵愛が受けられればそれで良い」


 彼は、絶対なる信仰心をその眼に宿しつつ、この会話が外部に漏れることのないよう、さらに声を潜めた。


「そうだとも、それで十分だ」


 男たちは会話を終えて監視を交代し、一人の男が立去ろうとしたその時。


「…待て」


 誰か岩場に近づいてくる気配。


 彼らは、その存在に全く気付くことができず、全身の毛を逆立てるように警戒心を引き上げ、静かに短剣を構えた。


 その人影は三人。彼らは二人の男に姿を見られても、あまりに堂々と近づいてくる。敵意はなさそうだ。


 わずかな雲の隙間から漏れた月の光が、その者たちの姿を、二人の男に微かにさらした。


「やぁ、お疲れ様」


 手前にいる男は、白髪交じりの穏やかな目元をした中老にも見える痩せた男で、気さくそうな表情で、二人の男に声をかけた。


「警戒しなくて良い。私は帝国《百影》の《ゲアラハ》だ。身内の不届き者を追ってきた」


 ゲアラハと名乗った彼は、帝国の諜報部隊で泣く子も黙る百影を率いる将軍、《ゲアラハ・ジス・バルブレア》その人だった。


 界隈に身を置く二人の男も、当然彼の名前は知っていた。しかし、依然として彼らに対してわずかに身構えるように警戒の色を示している。それは、彼がゲアラハ将軍本人であると断定できなかったからだ。


「身内、でございますか。…あそこに潜んでいるのは百影の仲間なのでしょうか」


 彼が将軍を名乗った以上、男たちは警戒を示しつつも、敬意を払うことを忘れない。


「君たちは知らされていないか。…これは、帝国の恥を晒してしまったな」


 ゲアラハには将軍としての威厳はなく、どこにでもいるような一人の物静かな中老の男としての雰囲気を纏っている。その空気感を身に着けることが如何に難しいか、理解できる彼らは、それが極めて大きな凄みとして受け取った。


「あの廃坑に逃げ延びたのは、百影に潜んでいた『ネズミ』だ。さっさと処分してしまいたいところだが…かなりの実力を持っている。慎重に様子を伺っていたところ、君たちを見かけてね。つい声をかけてしまった」


 身を屈めたゲアラハの首元には、バルブレア家の紋章が象られた装飾が顔をのぞかせる。


「君たちもネズミを追っているのかい?彼らに対抗するには二人では足りない気がするが」


 ゲアラハは男二人の短剣の切っ先を穏やかな目で見つめた。


 彼のアクセサリーの紋章とその誠実さに、将軍本人と認めた男二人は、その視線を受け、速やかに短剣を収めた。


「俺たちは単なる監視役です」


「本部から《執行者》が来るまで、交代で監視をしているだけです」


 二人の男はそう話した。


「成程、君たちは噂に聞く黒き監視団か。これは頼もしい味方を得たぞ」


 ゲアラハは、背後の二人を一瞥すると、彼らも静かにうなづいた。夜の闇に同化するように、その三人の影は揺らめく。


「これは提案だが…君たちの援軍が来たところで、私と共同戦線を張ろうではないか」


 彼は男二人に投げかける。彼らは顔を見合わせ、静かに頷いた。


 それを見届けたゲアラハは、同意を得たものと察し、温和な笑顔のまま手を差し伸べた。


「流石だ、君たちは賢明だよ」


 監視を終えた男も、差し出された手に自身の手を差し伸べる。


「ありが…」


 ゴリッ…


 見張りの男が手をゲアラハの手に握ろうとした瞬間に、彼はその男の腕をひきつけ、口に手を当て、首を一瞬であらぬ方向へと回して殺した。その動作は力ずくとはほど遠く、人体の構造や力の入れようを全て理解した、恐ろしいほど最適化された暗殺者の成せる技だった。


 ほぼ同時に、交代に来た男に対して、ゲアラハの背後に控えていた仲間二人が飛び掛かり、卓越した動作で、彼の首の骨をへし折って殺害した。


 ゲアラハは殺害した男の見開いた目を閉じ、ゆっくりと地面に寝かせる。彼のすべての動作が、自然体で行われており、それが長年にわたり暗殺に携わってきたことを物語っている。


「よいか。初対面では笑顔を絶やすな。気さくに話しかけて無害さを伝えよ。自分たちが相手にとって仲間であると誤認させ、警戒心が薄れた一瞬を狙うのだ」


 ゲアラハは、引き連れてきた部下二人に対して、暗殺の手法をやって見せ、いって聞かせる。


「はっ、肝に銘じます」


「さて…ここに一名残り、後続への対応を。もう一名は、別の場所から監視を再開せよ。そして私のような不届き者のネズミは…。暗い穴倉に戻るとしよう。おびき出されたとも知らない愚かなネコ共を待つために」

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