S-82 「重度の脚フェチだってことは調査済みなんだよ」(閑話)
宿に居着いた旅の弾き語りが、またあの耳障りな下手な歌を掻き鳴らし始めた。
かれこれ十回は聞いた。魂が削られるような気分だ。
(あぁ、早く我がボス…常闇の影様の清らかな調べに満たされたい……)
嫌気がさした矢先、軋むような音を立てて、古びた宿のオーク材の扉が開いた。
外の冷たい風と共に、この場に似つかわしくないけばけばしい上等な布を纏った男が入ってきた。成金趣味が服を着て歩いているようだ。
その男、ゾロフ・アリアスのねっとりとした目の周りには、いかにも「俺たち手練れです」と顔に書いている護衛が三名、目を光らせて付き従っている。
奴らは、バイレスリーヴへ向かう際、必ずこの宿を利用する。そして、空いていれば必ず入口に一番近いテーブルに着き、先ずは深く一息つくのだ。
「おい、そこ!下手くそめ!その耳障りな音色を止めろ!俺の耳が汚れるだろうが!」
ゾロフは弾き語りに、唾を吐きかけるような罵声を浴びせて、耳障りな歌を強制的にやめさせた。これについてだけは、珍しく同意せざるを得ない。ただ、同意したところで、私たちのやることは変わらない。
それはこの男、《ゾロフ・アリアス》を確実に殺害すること。
奴は行商人に扮した違法薬物の運び屋であり、バイレスリーヴにて未だ根絶に至らない薬を供給し続ける最大手の売人なのだ。我ら「黒き監視団」の任務は明確。奴を始末し、死体を晒して見せしめにすること。
ゾロフの用心深さと、護衛の存在。難易度はそこそこ高い。だが、奴は常に隠し金に関する帳簿を携帯している。成功すれば組織の資金源も潤う。一石二鳥の美味しい獲物だ。
「ねぇ、お兄さんたち。旅の途中でちょっとお金が足りなくなっちゃって」
私は、少し上目遣いで彼らに近づいた。私の任務は、暗殺を確実にするための情報収集。彼らが来るのを股の緩い旅人に扮して、ずっと待っていたのだ。
「誰だ、テメェ。死にたくなければ、さっさとあっちに行ってろ」
護衛の一人が、ぎょろりと私を睨みつけ、低い声で威嚇してくる。マニュアル通りの反応だ。
「そんな怖い顔しないでよ。ね、あなた。お金持ちそうじゃない。お願い、ちょっとだけでいいから。もちろん、良いことしてあげるよ」
私は護衛達に構わず、ゾロフに向けて胸元をチラ見せさせ、外套の裾をまくり上げ、頑張って手入れした、白く細い太ももを惜しげもなく晒した。
「おい! 汚らわしい女だ!」
護衛が立ち上がるが、ゾロフはそれを制した。その粘着質な視線は、胸元を素通りして、まくり上げた私の太ももに釘付けになっている。
「……存分に楽しませてくれるんだろうな」
(ちょろい。あんたが重度の脚フェチだってことは調査済みなんだよ。発情期の猿が)
「銀貨をくれたらね」
私は艶然と微笑み、ゾロフの手を取って、埃っぽい階段を上り客室へと向かった。
■ ■ ■
ギシッ、ギシッ、と安宿のベッドが単調な音を立てる。
私はゾロフの下で、熱に浮かされたような嬌声を上げながら、頭の芯で冷徹に時計の針を進めていた。
「はぁ……っ、す、すごい……!こんなの初めてぇ……!」
(よし、ここで一発大きめの声を上げて自尊心を満たしておく、と。このおっさん、動きが単調すぎて眠くなるな。天井のシミの数でも数えるか。一、二、三……四つ目はどこだ)
「お、俺の、俺の槍捌きはどうだぁっ!?」
「素敵っ! なんて激しいの!」
(はいはい、素敵素敵。そろそろ本題に入りたいんだけど。意外と頑張るな……おっさん)
私は絶頂に達したふりをして、彼の背中に爪を立て、耳元で甘く囁く。
「ねえ……明日もまた、こうしてくれる?何時頃に出発なの?」
「ぐふっ……あぁ、朝食を食ったらすぐだ……」
「やだ、寂しい。護衛の人たちも一緒?」
「……当たり前だろう……ブツの管理があるからな……」
「ブツ? 大事なものなの?」
「馬鹿野郎、馬車の下に隠してある、俺の全財産だ……」
(情報確定。出発は食後、護衛は三人帯同、ブツは馬車の床下。隠し金庫の場所も、さっき服を脱がせるついでにポケットを探って鍵を確認済み。チョロい、チョロすぎる。この程度の尋問耐性で裏社会を歩こうなんて、赤子が戦場に出るようなものよ)
私は恍惚の表情を浮かべながら、心の中でため息をついた。
もし私が男だったら、暴力で聞き出す手間があっただろう。そういう意味では、なかなか成果が出せない幼馴染の同胞には「お疲れ様」というところだ。
まぁ、そんな煽り方をすると、決まってアイツは「お前は身体をもっと大事にしろ」だの、めんどくさい説教モードに入るから言わないけど。
(……さて、情報も抜いたし、あとは適当にイかせて終わりにするか。さっさと終わらせて、スノゥシャ様のお声でも思い出して耳直ししたい)
「ああっ、もうダメェッ!」
私の完璧な演技により、ゾロフは満足げに果てた。
事後。窓から差し込む朝焼けの光が、埃を舞い上げている。賢者タイムに入ったゾロフは、無造作に銀貨を投げつけ、『さっさと出ていけ』と乱雑な声で命じた。
(はいはい、ありがとよ。典型的な「終わった途端に強がる男」ね。古宿で名も知らない女を抱いた事実を消したいのか、優位に立ちたいのか知らないけど)
もう彼に1ミリの興味もなくなっていた私は、銀貨を拾い、そそくさと退散した。
廊下で丸まって眠る護衛たちを踏みつけないよう気をつけながら、私は「仕事上がり」のさっぱりした顔で宿の広間に戻った。
■ ■ ■
「あら、昨日はお楽しみでしたね?」
竈から漂うパンの焼ける匂い。宿の店主が優しい目で話しかけてきた。
「まあ、そんなところよ。少し早起きしたので、小川の水を汲んできましょうか?」
「ありがとう、助かるよ」
使い古された瓶を受け取り、外へ出る。まだ冷たい朝の空気が、昨夜の労働で汚れた肌を洗うようだ。外では、ぱっとしない男が栗毛馬を丁寧に磨いていた。私の仲間で幼馴染のオーエンだ。
「今日はいい天気ね」
「ああ、本当に」
「でも、ご飯食べてすぐには雲が出てきそうね」(食後出発)
「そうか。その瓶、水は何杯必要なんだ?」(護衛の数は?)
「三杯ね。小川はあっちの方向?」(護衛三人、ブツの場所)
「いや、そっちだな。手伝おうか?」(位置確認。支援は要るか?)
「大丈夫。入り口に運ぶだけだから」(不要。正面から出てくる)
「そうか、良い日を」
自然を装った暗号会話。私は視線の端で、農作業に勤しむ《リアムン》と《ダーロク》を確認する。彼らも仲間だけど、自然さを装おうとするあまり、一心不乱に鍬を振るう姿が似合いすぎていて、吹き出しそうになった。
小川で水を汲み、ついでに顔を洗って思考を切り替える。
(常闇の神デヒメルよ。そして、我らが光であるスノゥシャ様。どうか、この汚れ仕事にご加護を)
宿に戻ると、あの弾き語りが起きてきて、静かに弦楽器を奏でていた。歌わなければ、まあまあ聞ける旋律だ。
そこへ、ゾロフたちが下りてきた。店主に対して横柄に朝食を要求し、食い始める。
(食べるの遅っそ。外で待ってるオーエンの馬が白馬になっちゃうぞ)
私は広間の端で、演技として木彫りのオカリナを作りながら時を待つ。
ようやくゾロフが立ち上がった。私は弾き語りに近づき、オカリナを見せるふりをして、外への合図を送るタイミングを計る。
「これ、見て。私作ったんだけど……音鳴るかなぁ」
「……汚らわしい」
弾き語りは娼婦を演じた私を見て、顔をしかめたが、演奏は止めない。ゾロフたちが荷物をまとめた瞬間、私はオカリナを強く吹いた。
ピーッ!
甲高い音が響く。これが「突入準備」の合図だ。
すると、何を思ったか、弾き語りが私の音色に合わせて即興でセッションを始めやがった。妙に息が合う。心地よいリズム。任務中だというのに、私は思わず乗せられて吹き続けてしまう。
まずいことに、宿を出ようとしたゾロフたちまで、足を止めて聞き入り始めてしまった。
(いやいや、お前らは出て行けよ!感動してんじゃないわよ!)
私が焦り始めたその時、弾き語りが気持ちよさそうに歌い始めた。あの、壊滅的に下手な歌声を。
「おまえ!下手糞は歌うんじゃない!!」
ゾロフが激怒し、耳を塞いで宿を飛び出していった。演奏は強制終了。
(ある意味ナイスアシスト……)
「楽しかった。ありがとう!」
「私もだ、阿婆擦れ。次までには歌の方も磨いておこう」
「あー。それはお勧めしない」
「下手くそな歌い手」と「嘘つきな阿婆擦れ」。ろくでもない組み合わせだったが、その瞬間、私たちの間には奇妙な共犯者めいた絆が生まれていた。
■ ■ ■
街道を進んだ先の岩場。そこには、血溜まりと、事切れたゾロフたちの死体が転がっていた。オーエンとリアムンが手際よく仕事を終えていたのだ。
私はオカリナで「クリア」の合図を吹き、ダーロクと共に馬車の荷台に乗り込んだ。
「うわっ、すっげぇ! リリ! これ見ろよ」
ダーロクが麻布をめくり、大量のラクリマの箱を見つけて興奮している。
「こりゃ、末端価格で百金貨は下らねぇぞ」
「それ、信心低すぎ発言。アンタはまだまだだね」
私は呆れてため息をつく。私たちは常闇の神の代行者。金は手段であって目的ではない。
「逆、逆。お前ほど信心高いやつに出会ったことねぇよ。何だかんだで、金が大事さ」
ダーロクは相変わらずだ。子供の頃から成長していない。
私は箱からラクリマをカモフラージュするために詰められた果実「ラムカ」を取り出し、匂いを嗅いで一口齧った。林檎に似た甘酸っぱい味が口に広がる。
「お前とオーエンは、昔から村の中でも有名だったからな。秘密結社とか作ってて」
「あー、それ黒歴史だからやめて」
私はダーロクの口にラムカを突っ込んだ。
「バイレスリーヴの中央拠点は常に人不足らしい。もしかしたら俺たちに依頼されるかもしれんぞ」
馬車を走らせるオーエンが、真面目な顔で言った。
「だと良いなぁ。久しぶりに買い物したいし!ニャムニャム軒も良かったよね!」
「田舎者の俺達の口に合う味付けだった」
四人で笑い合う。
馬車の揺れと、ラムカの味。そして、頼もしい幼馴染たち。この何気ない幸福がずっと続けばいいと、心のどこかで願っていた。
しかし、それは叶わぬ夢だ。私たちは「黒き監視団」。血と闇に塗れた道を選んだ代償は、いずれ必ず払わされることになるのだから。
私は齧りかけのラムカを見つめ、少しだけ感傷を飲み込むように、もう一口齧り付いた。




