S-81 「ヴュールの勘ですか」
バイレスリーヴ/元首の館/執務室【視点:元首オリアン】
「はい、はい!わかりました、ありがとうございます」
高い天井に太い梁が通る執務室の隅で、使用人としての初日を迎えたファウラは、先輩の使用人から仕事の要領を教えられていた。窓から差し込む午後の僅かな陽の光が、古い羊皮紙の積まれた机の上を照らしている。
僕は、山積みの書状や帳簿を前に執務に忙殺されながらも、合間合間で彼女の機敏な動きを視線で追いかけていた。彼女は館の空気にすぐに馴染み、澱みなく動き回っている。
「失礼します。こちらが本日分の嘆願書です」
ファウラは、地方からの重い嘆願書の束を運び、僕の机に静かに置いた。かすかに紙の匂いと、彼女から漂う温かい土のような匂いが混じって漂う。
「ありがとう」
ファウラは余分な会話をせず、僕と目が合うと、穏やかな微笑みを浮かべて去っていく。その笑顔に、張り詰めた心が少しだけ解けるのを感じた。
そんな彼女の背中を僕の視線が追いかけると、その視線の先、執務室の重い木製の扉際に、イルがこちらを見て立っているのに気づいた。彼女もまた、ファウラの動きを目で追いかけている。
そう言えば、彼女は任務出発前に顔を出すと言っていた。ただ、昨日の井戸端での出来事もあり、僕のイルに対する負い目は増す一方だ。
それに加え、イルが僕に対しあからさまに距離を取ろうとしている事への微かな不信感に、息苦しいほど気まずい気持ちになる。
しかし、そんな私情を挟む余地はない。イルはこれから、その身を危険に晒しながら、バイレスリーヴの命運をかけた影の仕事に赴くのだ。僕はイルを見送るため、執務を中断し、重い腰を上げて席を立った。
黒き監視団に関する会話は、誰であろうと漏らしてはならない最重要機密。僕とイルは館の隅にある別室へと移動した。
イルは、別室に入り、静かに扉を閉めた。
「ごめん、忙しいのに……」
「いえ……」
僕たちの間の微妙な雰囲気は継続し、会話の隙間を冷たい沈黙が支配していた。このままではいけないことは僕にもわかっている。謝らないと……誤解を解かないといけない。
「『あの』」
二人の話すタイミングが重なった。
「す、すみません、何でしょうか?」
僕は心の準備ができておらず、慌ててイルに先を譲る。
「出発の報告の前に……。大したことじゃないかもしれないんだけどさ……あの娘、ファウラだっけ」
まさかこのタイミングで、彼女の口からファウラの名前が出るとは僕は思わなかった。内心、動揺が走る。
「はい、彼女が……何か?」
と僕は、極力平静を装い尋ねた。
「……気をつけたほうがいいかも」
とイルは、僕の目をまっすぐ見つめて、躊躇いを含んだ口調で言った。
「はい?……ど、どういう事ですか?」
僕は、イルの言っている意味が全く理解できなかった。
「いや、なんていうか……君と話す時、良くない色っていうか……『不吉な色』が出てるんだよね」
不吉な色?それはどういう意味だ。僕の頭の中に湧き上がったのは、イルに対する疑念だった。
イルは、ファウラが何か良からぬことをしようとしている。そう言いたいのだろうか。その根拠が、不吉な色だって?それは言いがかりが過ぎないか。
もしかして、イルは、僕とファウラが親密な関係にあることに対して、僕との微妙なこの雰囲気の当てつけに、僕と彼女の信頼を壊そうとしているのだろうか。
僕が彼女を神聖視しすぎて、気まずくなっているのを知っていて、あえて突き放そうとしているのか?
そう考えると、僕の胸が強く締め付けられる気がした。あまりにも眩しすぎる『神』の言葉よりも、等身大の『人間』の温もりを信じたい。そんな弱さが、僕の目を曇らせたのかもしれない。
「……ヴュールの勘ですか」
僕は、冷ややかな語気を強めて言った。それには、隠しきれない皮肉が込められていた。
イルの僕を見る黄金色の瞳から、その瞬間、光が僅かに消えた。彼女の感情が凍りついたようにみえる。
「……一応、忠告したから。じゃあね」
彼女は、そう言って、僕の言葉も聞きたくないように、冷たく背を向け、部屋から出ていった。扉が静かに閉まる音が、二人の間に決定的な亀裂が入ったことを示していた。
僕は、その場で立ち尽くし、深く大きなため息をついた。窓の外では、再び空が曇り始めていた。




