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S-8 彼女だけが震えない

バイレスリーヴ東/黒き森【視点:世界(観測者)】S-8 彼女だけが震えない


「アニキ!『あの女』が戻ってきました!」


 見張りの報告に、男は顔を歪ませた。一昨日、《黒き監視団》のアジトを壊滅的な状態に追い込んだ元凶が、なぜか再び舞い戻ってきたというのだ。


「しかも、他にも仲間らしき三人が、一緒にこっちに向かってきます!」


 男は舌打ちをした。


「クソッ!俺がアジトの留守を預かってる時に限って……。ルガさんが戻って来てくれれば」


 彼等は武器を携え、森を知り尽くした獣のように音もなく移動しながら、見張りが指し示した方向へと迎撃に向かった。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ東/黒き森【視点:臆病者オリアン】


 数歩踏み入れただけで、世界が反転した。


 生い茂る木々が陽光を遮り、あたりは湿った仄暗さに包まれている。頭上を見上げても、枝葉の隙間から漏れる光は細く、森の深さを物語っていた。黒くねじれた幹は苦悶の表情を浮かべているようで、足元には奇怪なキノコや、薄ぼんやりと発光する苔が生い茂っている。聞こえるのは、風が葉を揺らす音と、遠くで響く得体の知れない獣の鳴き声だけ。


 僕の心臓は早鐘を打っていた。


 初めて心が通じ合った、その喜びを失いたくなくて、勇気を振り絞ってこの危険なパーティーに参加することを決めた。


 決闘大会クレイヴァートを控え、剣闘士を見つけることができずに現実逃避したいという気持ちもあったのかもしれない。

 だけど今は、正直言って今すぐにでも逃げ出したい。黒き森は野盗や暗殺者の隠れ家として知られるほか、《殺人黒豹、ロルガドーア》の生息地として有名だ。


 さらに恐ろしいことに、《外海》や《概念の彼方》から流れ着いた得体のしれない化け物が住み着いているという噂もある。


 そんな不気味な森に、冒険者を雇うわけでもなく、まともに剣を持ったこともない僕と、本屋で出会ったひ弱そうな女の子二人。

 いくら金色の髪の彼、グリンネルがブーアを倒すほどに強いといっても、この森で三人を守り切れるとは思えない。


 パキッ。


 足元の小枝が折れる音に、心臓が止まるかと思った。僕はビクリと肩を震わせ、声を出すことも出来ずに立ち固まった。


「あ、私だ。ごめーん」


 イルは悪びれる様子もなく、テヘッと舌を出した。彼女には、この森の静寂が怖くないのだろうか。


「少し道が悪いから気を付けて歩こう」


 先頭を歩くグリンネルは、周りを警戒しながら慎重に進んでいく。僕の前にはイル、そしてしんがりはキノル。この陣形はグリンネルが指示したものだった。


「師匠の地図によれば、アトリエはそれほど森の奥じゃない。この先の二股を左に進んだ先にあるみたい」


 キノルは、師匠に手渡された古びた地図をじっと眺めながら、グリンネルに冷静に伝える。あらゆる物音に、僕は過敏に反応してしまう。生まれてこのかた、こんな危険な場所に足を踏み入れたことがない。恐怖で、全身の震えが止まらなかった。


「ねぇ、オリアンさん」


 革袋の水筒を振り回しながら歩いていたイルが、不意に僕に話しかけてきた。


「な、なんでしょう」


 唐突な呼びかけに、声が裏返った。


「面倒だからオリアンでいい?」


「それで大丈夫です!」


 予想外の言葉に、僕は思わず声を張り上げてしまった。


「じゃあ、オリアン。前の元首はお父さんなんだよね?なんで死んじゃったの?」


 この状況で、彼女にはそんなことを考える余裕があるのか。そのことに僕は驚いた。もしかして、彼女もこの状況が怖くて、会話をすることで気を紛らわせているのだろうか。


「私も気になってた」


 後ろから、キノルの落ち着いた声が聞こえてきた。確かに、少し話したほうが気が楽になるかもしれない。そう考え、周りを気にしつつも僕は語った。


「え、えぇと、帝国に向かう際に、馬車が道から外れて、谷へ落ちてしまったんです」


「事故?」


 キノルの問いかけに、僕は小さく頷いた。


「そう、みたいです」


「みたいって?」


 イルは僕の言葉に疑問を呈する。


「僕は現場を見ていませんから、その場を偶然通りかかって発見した人から聞いたんです。それと、衛士団の調査報告書も読みました」


「そうなんだ。気の毒だったね」


 イルはそれ以上深く追及することなく、前を向いて歩き続けた。

 意外とさっぱりした反応で、僕には彼女が何を意図して尋ねたのか分からなかった。


「えっと、グリンネルとキノルはどういう関係?」


 再びイルが、隣にいるグリンネルに尋ねた。その内容に脈絡が感じられない。彼女の頭の中は一体どうなっているのか。


「どういう関係って……」


 グリンネルは明らかに動揺した様子で、キノルを見た。


「ただの用心棒」


 キノルはあっけらかんとした口調で返答した。グリンネルは、その言葉に肩を落としたように見えた。


「……キノルは、あの書店の店主をしている《ニーネッド》さんの弟子なんだ」


 グリンネルは、少し諦めたような、困ったような表情で続けた。


 ニーネッドさんについて、僕は生前の父から聞かされていた。「伝統ある街の書店の店主が帰ってきた」と。

 父は、ずっと引きこもっていた本の虫の僕が、外に出るきっかけになればと考えたのだと思う。


 キノルはそんなニーネッドさんの店で働く店員で、何度か見かけたことはあったが、話しかけることはなかった。ニーネッドさんの弟子と言うことは、物書きなのだろうか。


「俺が《王国の闘技場》にいたころに、キノルと師匠の二人が偶然試合を観に来てて。その時、ニーネッドさんに彼女の護衛としてスカウトされ、今に至るってわけなんだ」


 グリンネルは王国の闘技場にいたのか。どうりで逞しく、引き締まった体をしているわけだ。


「キノルさんが弟子というのは、物書きの見習いということですか?」


 その時、グリンネルは僕たちにしか聞こえないように、しかし真剣な眼差しで、「しっ」と静寂を求めた。


 その瞬間、僕は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 茂みがざわめいたかと思うと、唸り声とともに、僕の背丈ほどもある漆黒の猛獣が姿を現した。


 夜の色を纏った毛並み、血のように赤く光る瞳。鋭い牙を剥き出しにした猛獣は、僕を睨みつけ、威嚇するように低く唸った。


《殺人黒豹、ロルガドーア》だ。


「ひぃっ!」


 突然の恐怖に、腰の力が抜け、その場にへたり込んでしまう。猛獣は、そんな僕の怯えを嘲笑うかのように、一気に距離を詰める。


 次の瞬間、その巨大な影が僕の頭上を覆い、鋭い爪が振り下ろされようとしていた。


 ゴゴゴ……ボウッ!


 その時、僕の目の前に、眩いばかりの火球が現れた。燃え盛る炎が熱風を巻き起こし、猛獣の勢いを一瞬で止める。ロルガドーアは怯えたように後ずさり、身を低くして警戒の唸り声を上げた。


 僕が呆然と見つめる中、キノルは微かな声で詠唱していた。


「虚ろなる魂の深淵より、原初の焔を呼び覚まさん。我が血潮に宿りし古の律動よ、この意志に応え、再び、燃え盛る炎の形を成せ」


 彼女の指先から、ゆらりと、しかし力強い光を放つ炎が生まれる。その炎を指先に乗せたまま、キノルは猛獣の次の攻撃に備えている。


 ただ本好きなおとなしい少女。そう思っていたキノルが、まさか魔術師だという事実に、言葉を失うほどの衝撃を受けた。

 彼女が放つ魔法の光は、暗い森の中で、あまりにも美しく、そして、とてつもなく頼もしく映った。


「キノル、ほかに四匹いる!そっちの二匹を頼んだ!オリアンとイルはキノルから離れるな!」


 グリンネルは腰に携えた剣を抜き、戦闘態勢に入った。彼の表情は真剣そのもので、そこにいつもの穏やかな笑顔はなかった。


 ロルガドーアは、冒険者ギルドにおいて、初級冒険者三人以上、もしくは中級冒険者以上でなければ受けられない討伐対象だ。それが、目の前に五匹。


「来たっ!」


 ロルガドーアの動きを、イルの声がとらえた。グリンネルは、唸り声を上げて飛びかかってきた一体のロルガドーアの横腹に、剣の鞘を叩きつけた。猛獣は吹き飛ぶも、すぐに地面に足をつき、体勢を立て直す。


「オリアン、構えて!」


 イルは僕のそばに落ちていた木の棒を手に取り、僕にも腰の剣を抜いて構えるように指示する。


 僕と同じ戦力外の彼女だが、この状況でも驚くほど冷静だ。彼女の瞳には、一切の恐怖の色が浮かんでいない。


 ロルガドーアたちは、唸り声を上げながら、お互いに視線を送り合っている。賢い彼らは、きっと僕たちの隙を見つけ、一斉に襲い掛かってくるだろう。


 猛獣と僕らは、じりじりと睨み合ったまま、時間が停止したかのように感じられた。顔から噴き出した汗が、頬を伝い、冷たい雫となって流れ落ちていく。


 その汗が顎から地面に落ちた、ほんの一瞬。僕がロルガドーアから視線を下に落としたその時、奴らは一斉に飛びかかってきた。


 僕の隣で、キノルの指先から熱を帯びた火球が燃え上がり、唸り声を上げる二匹の猛獣を牽制する。反対側では、グリンネルが剣を振り回し、重く鈍い音が響き、さらに二匹の動きを封じる。


 その時、残り一匹のロルガドーアが、その鋭い牙を剥き出しにして、僕の顔に向かって飛び掛ってきた。恐怖で身が竦み、声すら出せない。


「オリアン!」


 危機一髪。僕の喉が食い破られる直前、イルが手持ちの棒を殺人黒豹の口に押し込んだ。


 彼女は僕をかばった勢いで地面に倒れ込み、その上をロルガドーアが覆いかぶさるように、彼女に襲い掛かっている。


「うわあぁ!」


 考えるよりも先に、体が動いていた。僕はとっさの判断で、腰から抜いた剣を、震える手で思いっきりロルガドーアの体に叩き込んだ。


 鈍い音とともに、僕の剣がロルガドーアの背中を裂いた。しかし、その一撃で倒すには至らず、ロルガドーアは唸り声をあげながら、物凄い形相で僕をにらみつける。その血のように赤い瞳には、僕を殺そうとする明らかな憎悪が宿っていた。


 全身の毛が逆立ち、恐怖で再び足がすくみそうになる。だが、僕はここで引くわけにはいかなかった。目の前で倒れているイルを、このまま見殺しになどできない。


 ロルガドーアが再び僕に飛びかかってくる。僕は、震える剣を、自分の腰から再び抜き、この一撃にすべてを賭けて、前に踏み出した。恐怖の先に、守るべきものが、僕にはあったからだ。


 しかし、その攻撃は、僕の想像をはるかに超えるものだった。ロルガドーアの爪と僕の剣がぶつかり、甲高い音が森に響く。弾き飛ばされた剣は、宙を舞い、僕の手から離れていく。僕はあまりの迫力に、腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。


 もう駄目だ。


 そう思ったその時、横からグリンネルが飛び出し、ロルガドーアの首を、その剣で一閃した。鮮血が宙を舞い、殺人黒豹の大きな体が地面に倒れ伏す。


「オリアン、大丈夫か!?」


 グリンネルは、地面に座り込んだ僕に手を差し伸べ、力強く引っ張り上げてくれた。足腰に力が入らず、手は震え、やっとのことで立ち上がることができた。見回すと、殺人黒豹たちはすべて倒されており、皆、怪我もなく、無事のようだった。


「やるじゃん、オリアン」


 イルは、倒れこんだ時についた背中の土を払いながら、僕を褒めてくれた。


 グリンネルとキノルの圧倒的な実力。そしてイルの無謀とも思えた僕を庇う勇気。だけど、何故彼女は…震えていないのだ。


 グリンネルやキノルですら、微かに息を荒げている。


 なのに彼女ときたら。遠い静かな海のよう。


「よし、キミは今日から私の相棒ね!」


 今使ったばかりの、木の棒に話しかけている。

 子供のよう。この恐ろしい森での冒険を…ただただ楽しんでいる。


「はは…ははは」


 さまざまな感情と考えがいっぺんに押し寄せてきて、僕はただ、ひきつった笑いを浮かべることしかできなかった。

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