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S-75 「別の立場でお会いすることになるだろう」

バイレスリーヴ/元首館/主寝室【視点:元首オリアン】


 窓の外は、すっかりと白んでいた。


 夜通し降り続いた雨は上がり、朝の薄い陽光が、執務室の窓のステンドグラスを透過している。床の粗い石板に落ちる光は、どこか冷たく、寂しげな色彩を帯びていた。窓の隙間からは、湿った土の匂いと、雨に洗われた石の青臭さが微かに漂い、僕の憂鬱を助長する。


 イルは結局、夜の間も館に戻らなかった。


 そっと覗いた彼女の部屋。扉は昨日僕が出て行った時と同じ角度で、わずかに開いたままだ。


 中に残された深青色のドレスや帽子、彼女の小さな革鞄も、主の帰りを待つように静止している。まるで、あの瞬間からそこだけ時が止まってしまったかのように、彼女が戻った気配は微塵もなかった。


 僕は、激しい後悔の念に苛まれ、頭を抱えた。


 昨夜、彼女が「真の姿」を顕したあの瞬間。あまりに衝撃的で、神々しいほど美しかったその光景に、僕の理性は吹き飛び、思考が停止した。


 抑えきれない感動と動揺、そして信仰心。それらが混ざり合い、きっと酷く不気味な顔をしていたに違いない。


 女性慣れしておらず、今まで誰とも深い関わりを持ったことがない僕だ。畏敬の念以外、決してやましいことなど考えていなかったけれど、もしかしたらあの時、興奮しきった獣のような、無様な視線を向けてしまったのではないか。


(……いや、きっとそうだったんだ)


 あの瞬間、彼女は間違いなく僕を気持ち悪がったはずだ。「やっぱ無かったことで」という彼女の言葉が、拒絶の刃となって胸に突き刺さる。


 もしかしたら彼女は、僕のそんな反応に心底引いてしまい、もう二度と僕の前に現れないと決意して、故郷である外海へ帰って行ってしまったのかもしれない。


 ただ、そうだとしたら。あまりに潔癖なイルの反応に対し、置き去りにされた子供のような、不満に似た複雑な感情も湧きあがってくる。


 胸がチクリと痛み、重い鉛を飲み込んだように呼吸が浅くなる。その感情と自責の念で、僕は昨晩、まともに眠ることもできなかった。徹夜で彼女の帰りを待ち望みながら、気を紛らわせるように書類に向かい、夜明けまでになんとか昨日分の仕事を終えたのだ。


 だが、流石に今日は、そんな私的な感情で執務を滞らせる訳にはいかない。冒険者ギルドで発生している報酬不払い問題への早期対応。新たな産業施策のまとめ上げ。開墾を待つ農村部への挨拶回りの調整。地方地主の謁見対応。やることは山積みだ。


「国家元首」という役目は、これほど多忙を極めるものだとは思わなかった。僕は自分の過去という殻にこもり、父の仕事をろくに見てこなかった。今になって、そのツケが回ってきたのだ。


 僕は執務室から浴室へ向かい、冷たい水で顔を洗った。鏡の中の自分。眼の下には、くっきりと濃い隈ができている。


 だけど、それでも。数週間前の、生気のない虚ろな僕の表情と比較すれば、目の奥に確かな光が宿り、ずいぶんまともな顔になったと、我ながらそう感じた。この隈は、僕が「今」を生き、責務に向き合っている証なのだと、無理やり自分に言い聞かせる。


 バイレスリーヴ国家元首としての、僕の一日が始まる。


 僕は朝食前に、冷たい空気が満ちた館内の礼拝室へと足を運び、誰にも悟られることのないよう、深海神ルヌラに静かに祈りを捧げた。


 心の内に僅かな安寧を見出すと、執務室へ戻り、分厚い書類の山に目を通す。


 朝食後、執務室には家令や行政官といった主要な使用人が集まった。


 その日の作業を指示し、領内の行政報告を受ける。領地の基盤である農村地の収穫や都市の経済に関わる重要な案件も、必死に目を通し裁定していく。


 その後は元首の重要な職務たる法廷だ。


 民からの訴訟や苦情を直接聞くとともに、盗難や土地の境界争い、契約違反などの民事・刑事事件の判決を下す。


 裁定の間、僕は公正を保とうと、書物で得た知識をフル回転させるが、裁かれる人々の切実な視線は重圧となって僕の肩に圧し掛かった。


 僅かに空いた時間を見つけ、新たな政令発布に向け、公文書の作成・確認を行い、行政官から徴税状況の報告を受けていた時だ。


 報告が終わる頃、背筋をピンと伸ばしたダークエルフの美しき衛士長官、ディナリエルさんが現れた。彼女は僕の耳元で、「別室で話がある」と囁いた。


 二人で移動した、執務室の隣の客間。ディナリエルさんは窓からの逆光を背に受け、静かに切り出した。


「仕事が板についてきたようだな」


 ディナリエルさんは微かに口元を緩めるが、その瞳の奥は鋭い。


「……こんなに忙しいとは思ってもいなくて。自分の力不足を痛感します」


 僕は取り繕うよりも、正直さを優先し、心境を吐露した。


「仕事の力加減が見えてきたら、もっと楽になるだろう。しかし、今の執務量を考えると、使用人だけでは、やや力不足だと感じるのは確かだ。エドワルドを支えていた補佐官達が離れたというのもあるが……彼等の再雇用含め、もっと身近で元首様を支える、優秀な補佐官を探す必要があるな」


 ディナリエルさんは腕を組み、執務室とこの部屋を隔てる壁を眺めた。


「使用人の皆さんは、頑張って働いてくれてはいますが……僕が至らないというのもありますし……」


 僕は顔を赤らめ、自分の責任を認めるように俯く。


「おっと、今日はこんな説教をしにきた訳ではないんだ。ただでさえ多忙な国家元首様の悩み事を増やすのも気が引ける」


 ディナリエルさんは言葉を切り、静かに、深く息を吸い込んだ。その沈黙は、別室の空気を重々しく支配する。


「……別室でのお話しということは、それだけ重要な案件なんですよね。僕は大丈夫です。お願いします。話してください」


 僕は意を決し、ディナリエルさんの目をまっすぐに見返した。


 彼女は僕の反応を受け止め、その覚悟を試すように数秒の間を置く。淡い色の唇が微かに動いた。


「明後日の夜。館の使用人が寝静まったころ、私の手のものが元首様を迎えに上がる」


 彼女の語り方が、妙に影を帯びていた。その声の低さと迫力に押され、僕は生唾を飲み込んだ。


「その時、私は衛士長官でも医学者でもない、別の立場でお会いすることになるだろう」


 長寿種のエルフ族であるディナリエルさんは、バイレスリーヴの歴史を体現するような存在だ。この国の深い秘密を知っているのかもしれない。否、彼女自身がその秘密の一部なのかもしれない。そんな想像に、全身が粟立つような戦慄を覚えた。


「わ、わかりました。……明後日の夜、ですね」


 僕の承諾を確認した彼女は、別れの挨拶をして、静かに部屋を出て行った。


 ディナリエルさんの知られざる別の立場とは。明後日の夜、何が行われるのか。


 僕は、彼女の語り口調に気圧されながらも、自分が本の中で憧れていた「陰謀団」的な雰囲気を現実に感じ取り、不謹慎にも胸が激しく鼓動していることに気付いた。


 その時、カーン、カーンと昼の鐘が鳴り響き、午前の業務が終了した。

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