S-74 「ねぇ、喉乾いたんだけど」
バイレスリーヴ/地下/拠点ウーガ・ダール【視点:世界】
静寂に包まれた円卓の広間でイルとルガルフが対峙した。
イルの片手に握られていたのは、不気味な黒の長剣。
それは深海の底で何千年もの時を経たかのような、分厚い黒錆に覆われている。青く艶やかなイルの肌とは恐ろしく対照的でありながら、まるで彼女の臀部から伸びた、背骨に似た黒い尾の一部であるかのように、異様な存在感を放っていた。
対するルガルフは、銀色に輝く毛並みと鋭く光る爪と牙を顕にし、腕や脚の隆々とした筋肉からは、野性の脅威が迸っている。
じっと互いの間合いを測る中、空間の歪みとも錯覚するような、予測不能な動きでイルが先行した。
トンッ。
彼女は軟体動物のような柔軟な身体を活かし、地面を這うような超低姿勢でルガルフへ距離を詰める。
「シッ!」
ルガルフは身構え、彼女の動線を予測し、鋭い爪の腕を振り下ろした。空気を裂く音が響く。だが、イルはその攻撃を見極めていたかのように、錆びた剣の先端を床に突き立てた。
ガァン!
剣先が僅かに青い燐光を発し、硬い石床に深々と突き刺さる。その剣は強固な錨の役割を果たした。剣を支点に、彼女は身体を独楽のように急旋回させる。ルガルフの攻撃を紙一重で躱しつつ、側面から回転の遠心力を乗せて、リーチの長い尾でルガルフをなぎ払う。
ブォン!
空気を薙ぐ重い音。彼女の全体重と回転力が乗ったその剣は、折れる気配も床から抜ける気配もない。
「ッ!」
ルガルフは並外れた動体視力と反射神経で対応した。空中で身体を強引に捻って躱し、後方へ跳んで距離を取ろうとする。
だが、イルの追撃は止まらない。
床に刺した剣を支点とし、身体の旋回と尾を振り回した遠心力をそのまま活かし、軽業師のように身体を翻す。
続けて床から剣を抜き、ルガルフが着地するよりも速く、彼の股下をくぐり抜けて床を滑るように背後へ移動した。
ルガルフが後方へ着地した刹那。イルは背後から床を蹴り、彼の背中に剣の柄を突き出して殴打した。
ドゴッ!
「ぐぅッ……!」
ルガルフは怯んで姿勢を崩す。だが、獣の本能が反撃を命じる。彼は身体を無理やり捻りながら、背後の彼女を爪で引き裂こうと裏拳を放つ。
しかし、彼女は身体を液状化させるように柔軟に捻り、それを回避。その流れのまま、両手を床につき、後方倒立回転跳びへと移行する。その身体の動きに一拍遅れてしなった尾が、下から上へとルガルフの顎下を狙う鞭となる。
バシィッ!
ルガルフは咄嗟に片手でそれを防ぐも、尾の回転力は凄まじく、腕ごと弾かれて大きく体勢を崩した。
イルは後方倒立回転跳びの着地の際、再び剣を床に突き立てて、その柄を握った片手のみで倒立状態で静止した。逆さまの視界で、ルガルフがその動きに驚愕の視線を送るのを見て、彼女はニヤリと笑った。
「隙」
一瞬静止していた彼女は、脚と尾を螺旋状に回し捻りながら前方に着地。その反動を上半身に乗せて半回転。床から剣を引き抜き、美しい弧を描くようにルガルフの肩口へ振り下ろした。
「甘いッ!」
しかし、ライカンスロープの反応速度は彼女の予測を上回った。
ルガルフは弾かれた腕の勢いを利用し、さらに体を回転させ、彼女の無防備な脇腹に、横から強烈な蹴りを放つ。
だが――彼女はその蹴りを予知していた。剣の攻撃はブラフ。あえて脇腹を晒していたのだ。
ガシッ。
イルは、空いている片手でルガルフの蹴りを止め、腕と脇腹でその足を万力のように固め取った。
片脚一本で立つこととなったルガルフ。その軸足を、黒い尾が蛇のように絡め取り、転倒を狙う。
「させるかよッ!」
ルガルフも一筋縄ではいかない。
イルに掴まれた脚を支点に、強靭な腹筋と大腿筋で身体を起こし、鋭い爪でイルの上半身を狙う。至近距離からの斬撃。
彼女は一瞬驚きの表情を見せるも、楽しそうに微笑み、躊躇なく剣を手放してその腕を両手で受け止めた。
「オラァッ!」
ルガルフは果敢にも、掴まれた反対の腕を振り、その鋭い爪で再びイルを狙う。
彼女は彼の攻撃を、軟体動物のように上半身を反らして躱し――頭の触手(髪)を生き物のように動かして、その腕に絡みついた。
「――捕まえた」
「グッ……!?」
四肢と首、すべてを封じられた。ルガルフは力ずくでその拘束から逃れようとするも、彼の破壊的な力をもってしても、イルの筋力(あるいは魔力による強化)はそれを上回り、解くことができない。
イルは、その柔軟な身体で、ルガルフの首に両脚を絡めながら、纏わりつくように拘束箇所を上半身に移行させ、太股を使って首を絞め上げる。
「……ぐっ……ぐぅ……参った」
全身の力を抜いた、ルガルフの呻き声を聞き、イルはゆっくりと拘束を解いた。
ライカンスロープからすれば、人間は脆い生き物だ。
狡猾さとその数、魔法や道具を扱うことにより人間は「人知の平原」を支配してはいるものの、単純な身体能力では、人はライカンスロープに及ばない。しかし彼女からしてみれば、ライカンスロープですら、とても脆い生き物なのかもしれない。
ルガルフは戦いの後、膝をついて荒い息を整えていた。
イルの、その異様な柔軟性と錆びた剣を組み合わせた戦闘スタイルは見事であり、黒く無機質な尾による打撃は、人間ならばひとたまりもなかっただろう。
(……彼女がヴュールの中でも上位の実力者だと信じたい。でなきゃ、俺の立場がない)
ルガルフは心の中で自嘲した。
「森の時のほうが、動きにキレがあったね」
イルは、戦闘後、地面に座り込んだルガルフに手を差し伸べた。
「……確かに……そうかもしれないな」
ルガルフは、イルの差し伸べられた手を乱暴に取り、勢いよく立ち上がった。そして、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべる。
「よし……アンタの魔法不使用のタイマン戦での実力は理解した。次は、俺と同じく武器無し、魔法無しの、純粋な素手での勝負だ」
彼は息も整えずに、再びイルに正対し、闘志を燃やしながら構えの姿勢をとった。
「……へ?」
イルは、困惑した表情で聞き返した。
『……えー。これ、いつまで続くんですか?』
イルの肩の上を浮遊する半透明のルトが、心底辟易とした声で会話に割り込んだ。僕の目には、汗だくの獣人と、ヌルヌルした異形がじゃれ合っているようにしか見えない。
「さぁな……」
擦り傷だらけで息が上がったルガルフは、今度はアジトの巨大な円卓で、イルに腕相撲を挑もうとしていた。
「ねぇ、喉乾いたんだけど」
「うるせぇ、ほら、ゴースト。開始の合図だ」
ルトは、深々とため息をつき、言われたとおりに2人の間に霊体の腕を下ろした。
『……レディ・ゴー』
怨みがましく号令をかける。
「ぐぐぎぎぎっ!!」「ぐぬぬ」
2人の腕は、円卓の上で凄まじい力を込めて拮抗した。
イルの触手の髪の先端が興奮で赤紫に変色し、細い腕の筋肉が鋼鉄のように波打つ。ルガルフも苦しそうな表情を浮かべながら、負けじと筋力を増大させるも、ついには押し込まれ、円卓に手の甲を叩きつけられた。
ダンッ!
「がーっ!!バケモンか!?……次!反対の腕!」
ルガルフは悔しさにテーブルを叩いた後、再び椅子に腰かけ、反対の腕を突き出した。
「ねぇ、だから喉乾いたんだけど」
■ ■ ■
バイレスリーヴ/地下/拠点ウーガ・ダール【視点:常闇の目ノエル】
「表の仕事」とともに、母さん(ボス)に指示された手配を終え、アジトの《円卓の間》に戻った俺は、まさかの光景を目にして立ち尽くした。
「ねぇ、喉が渇いて死にそうなんだけど」
「うるせぇ!あと一回!」
『あの、これいつまでやるんですか?』
イルの肩の上を浮遊する半透明のルトが、死んだ魚のような目でルガルフに尋ねている。
「だまれゴースト、おれが勝つまで(・・・・・・)に決まってるだろ!」
そこには、命を削って戦ったかのようにボロボロになった姿のルガルフと、わずかに疲労の色が見えるイルが、部屋の隅にあるデヒメルの像にぶら下がって懸垂を競い合っている姿があった。
「はぁ……悪い負けず嫌いがでているな」
ルガルフは信じられないくらいの負けず嫌いだ。それは彼の生い立ちが関係しているのだろうが、勝ちを追求しすぎる姿勢にはさすがに呆れる。以前、彼とカードゲームをやった際、日が昇るまで徹夜させられたことを思い出せば、彼の「勝つまで」という言葉を決して信用してはいけないのだ。
「金の亡者に言われたくはない。……651……」
ルガルフは両腕を震わせながら、苦悶の表情で数を数える。作業をしていたビヴォールが、自分のことを言われているかと思ってビクリと振り向いたのを見逃さなかった。
「ルガルフ、いったん停戦して、彼女を解放してあげてください。オリアンが彼女の姿を探し始めています」
イルを攫って丸一日が経っていた。
イルはオリアンの心の支えでもある。彼女の不在に不安を覚えたオリアンは、それとなく周辺の者にイルの所在を確かめ始めているという情報が入っている。一度戻らせて姿を見せ、安心させるべきだ。これ以上騒ぎになれば、母さんに大目玉を食らう。
「これが終わってからだ。……666……」
ルガルフの勝利への執念は、理性を完全に麻痺させている。こういう時は、彼の負けず嫌いより優先される、絶対的な恐怖を暗示させることが必要だ。
「ボスが、もうすぐ来るみたいだけど」
「――ッ!?」
その言葉に、ルガルフはまるで熱した鉄に触れたかのように即座に懸垂を止め、石像から飛び降りた。着地と同時に背筋を伸ばす。
「……行って来い。戻ってきたら続きをやるからな」
ルガルフは、さっきまでの疲労と苦痛を一瞬で忘れ去ったかのような爽やかな表情(と冷や汗)でイルを解放した。
「やっと……」
イルは、ようやく解放されたとばかりに、脱力したように地面にへたり込んだ。彼女の蒼い髪――触手は、疲労で少し色が褪せているように見えた。
カン……カン……。
ビヴォールの槌の音だけが、静かに響いていた。




