S-7 共鳴する悪夢
【視点:蒼髪の少女イル】
(……誰かが、呼んでいる)
意識が、泥のような暗闇の底へと沈んでいく。
そこは酷く冷たく、息が詰まるほどの重圧に満ちていた。
その深淵の奥に、とてつもない質量を持った「ナニカ」がいた。
形は定かではない。ただ、私の存在など芥子粒に思えるほど巨大な影が、静かに揺蕩っている。
それは、私を見ていた。
目があるわけではない。けれど、ねっとりとした視線が全身を這い回り、魂の形を確かめられているのがわかる。
怖い。けれど⋯
私の奥底が、その影に呼応してドクンと脈打った。
『――――』
声なき波紋が、頭の中を直接撫で回した気がした。
「……ッ!!」
私は弾かれたように飛び起きた。心臓が早鐘のように鳴っている。びっしょりと掻いた寝汗が、急速に冷えていくのを感じた。
「……夢、か」
嫌な粘り気が、記憶の隅にこびりついて離れない。荒い呼吸を整えながら、私は自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
ふと、違和感を覚えた。
いつもなら、私が目覚めればすぐに憎まれ口を叩いてくるはずの同居人が、静かすぎる。
『……母、さま……』
私の身体の奥底から、微かな「震え」が伝わってきた。ルトだ。
あの生意気な捻くれ者が、迷子のような感情を漏らしている。
何を夢見ているのかは分からない。けれど、その悲痛な響きは、私の心臓を直接握りつぶすかのように伝播してくる。
(どんな夢を見れば、そんな風になるのさ……)
私はため息をつき、内側に向かって声をかけた。
『……起きなよ、ルト』
■ ■ ■
【視点:幽霊王子ルト】
深い眠りの中、僕の意識は、底の見えない水の中へ沈むように、淡く霞んだ記憶の回廊へと誘われていった。
最初に現れたのは、母の面影。
光の差し込む王宮のテラスで、母が静かに本を読んでいる。ページをめくる音が、そよ風のように優しく響く。その光景は、永遠に続いてほしいと願うほど穏やかだった。
だが、次の瞬間、世界は反転する。
暖かな部屋は戦場へ変わり、焦げ付くような熱波と、大地を揺るがす轟音が全てを飲み込む。誰かと二人、互いに魔法を放ち合い、笑い合った輝かしい日々も、泥のような闇と鮮血に塗りつぶされていく。
母の顔から生気が失われ、窓から差し込む光が絶望的な灰色に染まる。
僕はただ、冷たくなる彼女の手を握りしめ、己の無力を噛み締めることしかできなかった。
悲劇、裏切り、そして死。
意識が深い霧の中へ溶けそうになった時、遠くから暢気な声が聞こえた。
『……起きなよ、ルト』
その声が、僕を地獄の淵から引きずり上げた。
「……ッ、はぁ……」
強制的に覚醒させられる。
目が覚めると、窓の隙間から差し込む光が、舞い上がる埃を照らし出していた。
僕は彼女の意識深層から半身を離脱させ、霊体の身体を伸ばして周囲を見渡した。イルがベッドに寝転がり、僕の顔を見上げている。
「やっと起きた。反応がないから、死んじゃったのかと思った」
「まぁ、すでに死んでますけどね」
僕は努めて冷静に返したが、イルはニシシと笑いながらも、その瞳には僅かな気遣いの色が混じっていた。僕の夢が伝わっていたのかもしれない。最悪だ。
「で、ここは何処?」
イルは硬いベッドの感触を確かめながら、不思議そうに首を傾げている。
「ここは宿です。キミが昨夜、《黄金の潮風亭》でだらしなく酔い潰れたので、僕が君に代わって、ここまで歩かせたんですよ」
持ち金と相談し、偶然見つけた一泊わずか3銅貨の安宿《赤帽子》。
意識のない「器」を操り、ここまで連れてくる苦労など、彼女は露ほども覚えていないらしい。
「ありがとう!ルトはなんだかんだで優しくしてくれるよね」
「勘違いしないでください。あんな場所で寝られたら、何されるかわからない。……これは器の管理の一環です」
「はいはい。ツンデレ乙」
「……意味の分からない言葉を使わないでください」
イルは僕の皮肉を意に介さず、ベッドから飛び降りた。
「さて、出発しよう!!黒き森のアトリエに!!」
「その前に。顔を洗って、歯を磨いてください。酒臭いですよ」




