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S-67 「現状維持は後退を意味する」

バイレスリーヴ/元首の館/オリアンの執務室【視点:元首オリアン】


 その日の朝。目覚めて執務室に向かう途中、僕は息を潜めてイルの部屋を覗いた。……いない。朝食の時間になっても、食堂に彼女の姿はなかった。部屋に荷物が残されているのが、唯一の救いだ。


 一瞬、胸を冷たい不安が過る。


(荷物があるということは、近くにいるのだろうけど……もしかして……僕と顔を合わせるのが気まずくなったのだろうか)


 いや、気まずいのは僕の方だ。昨日、イルは僕だけにその「真の姿」を曝け出してくれた。

 その瞬間、僕は体が石になったように動けなくなってしまったのだ。


(なぜなら、その姿があまりにも――神々しく、美しかったから。)


 彼女の正体。それは、外海から来たという《ヴュール》のようだった。だが、その姿はあまりにも……。僕の愛読書《ルヌラ神話、深海からの呼び声》の第四巻に満を持して登場する、僕が秘かに、しかし熱烈に信仰してやまない《深海神ルヌラ》と見紛うほどに、神々しかった。


 挿絵よりも、僕が長年妄想していた理想よりも、遥かに美しく、神聖な姿。


 かつて、僕は深海神を信仰していることを暴露され、社会的地位を失った。そのトラウマから、信仰の事実は「墓場まで持っていく秘密」だと固く誓っていた。だというのに。目の前に「あの方」そのもののような存在が現れたのだ。


 僕は跪き、額を床に擦り付け、歓喜の祈りを捧げたい衝動に駆られた。


(あまりの衝撃に体が硬直して、指一本動かせなかったけれど)


 恐らく僕は、彼女を見て、畏敬の念に打たれると同時に、憧憬と興奮のあまり、とんでもなく恍惚とした気持ち悪い表情を浮かべてしまっていたに違いない。


 そんな僕の異様な反応を見て、彼女はどう思っただろうか。「あ、こいつ卑猥な目で見てる」と判断し、幻滅したのではないか。でなければ、「やっぱ無かったことで」なんて、あんなに気まずそうに言うはずがない。


(……終わった)


 僕は頭を抱える。自分の抑えきれない信仰心(オタク心)のせいで、彼女にドン引きされてしまったのだ。今日も結局、溜まった執務に忙殺されて、謝ることも、顔をしっかり見ることもできていない。


 悶々とした心が整理できないまま、約束の時間となり、執務室の扉がノックされた。


 ディナリエルさんだ。今日は、新しい冒険者ギルド会長の人事について、彼女と共に商業者ギルド会館へ向かうことになっている。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/商業者ギルド会館 【視点:元首オリアン】


 ドォン!


 分厚く重厚なオーク材の扉を押し開いた瞬間、暴力的なまでの熱気が僕を襲った。


 埃っぽい空気、様々な言語の怒号、そしてチャリチャリと鳴り止まない硬貨の音。それらが混ざり合い、巨大な生き物のうめき声のような喧騒となって、鼓膜を叩く。


 油煙を上げるランプの煤の匂い。湿った羊皮紙のインク臭。誰かが開けた古びた葡萄酒の酸味。ここは戦場だ。金と欲が飛び交う、商売という名の戦場。


「シナモンの相場が跳ね上がったぞ!サフラヒルの供給が止まったからだ!ザーラム経由で流すなら三割乗せろ!あそこの貨幣の銀含有量はクソだからな!」


「おい、そのスパイスの質じゃフロースフォンスの市場は通らんぞ!輸送路が不安定だ、一旦三番倉庫へ回して寝かせろ!」


 飛び交う声は、どれも殺気立っている。


「間違いねぇ、純度の高い銀貨だ。……次はアルゴエイムへの内海航路だが、ウニヴェリアの巡礼者どもがまた面倒を起こしてやがる。護衛の手配はどうなってる!」


「関所で裏金を握らせるより、コラン村の傭兵を雇え!金に汚いが仕事は確実だ。ただし鉄槌は持ち込ませるなよ、ブーアみてぇな馬鹿がいるかもしれん!」


 テーブルを叩く音がリズムを刻む。木製の計算機アバカスが弾かれる乾いた音が、あちこちで鳴り響く。


「聞いたか?世界新教団の神官が、次の遠征隊に呪術師を同行させるらしい。神の祝福より金貨の方が確実だと、あの堅物どもも理解し始めたってわけだ!」


「葡萄酒の売り上げだ。《酒の神バッコル》に感謝だな。……明日の魔法大学との商談、魔術師相手は骨が折れるが……金になるなら悪魔とでも手を組むさ!」


 僕たちが扉から入ってきたことなど、誰も気にも留めない。この圧倒的なエネルギーの渦に、僕は気圧されて足がすくみそうになる。


 そんな喧騒の奥。ギルドホールの最も高い場所で、葉巻をふかしながら商人たちを指揮している白髪の老人がいた。ルーガットだ。その隣には、すっかり傷の癒えたファルクレオが、彫像のように目を閉じて立っている。


 ルーガットと目が合う。鋭い眼光。彼は相手の商人に短く断りを入れ、席を外させた。


「着いてきてくれ」


 ディナリエルは僕に目配せすると、人混みを縫い、迷いなく彼の待つ場所へと進んでいく。僕はその背中に必死でついていった。


 ■ ■ ■


「首尾はどうだ」


 ルーガットは、机の上の書類を秘書に下げさせ、太い葉巻を灰皿に置いた。肩の包帯は取れている。


「冒険者ギルドの方は、大方片付いた。あとは彼の説得だけだ」


 ディナリエルと僕は、ルーガットの向かいにある革張りの椅子に腰かけた。秘書が、ディナリエルの前には葉巻セットを、僕の前には湯気の立つ珈琲を、音もなく並べる。


 ディナリエルは葉巻の先端を手慣れた手つきでカットし、ランプの火で炙って紫煙をくゆらせた。


 これまでも何度か見ているが、その所作は洗練されていて、正直、悔しいくらいにかっこいい。大人の会話、大人の空気。僕だけが子供のまま取り残されている気分になる。


「アドホックの代わりも……か?」


 ルーガットが煙を吐き出し、問いかけた。


「それも人格的には申し分ない。……どう見ている?」


「及第点だ。大局観はこれから養えばいい。……それより、ダイアナが心配だ」


 二人は短い単語だけで、膨大な情報を交換していく。僕はそのスピードについていくのがやっとだ。


「謹慎が明けたら、彼女は議会に復帰してくれるだろうか。場合によってはもう一人、目星をつけておく必要があるな……」


 ディナリエルが足を組み替え、憂いを含んだ溜息を漏らす。重苦しい沈黙。その時、ルーガットの鋭い視線が、矢のように僕を射抜いた。


「――オリアン、お前はどう見る」


 心臓が跳ねた。非常に短い質問。だが、その眼光は僕の魂の底まで見透かそうとしている。試されている。文脈からすれば、ダイアナの現状と、後任候補についての意見を求められているはずだ。


「こ、この街のために、ダイアナさんにはその能力を遺憾なく発揮してもらいたいところです。ですが……折れてしまった心を癒すことは、難しいと思います」


 そう話しながら、適任者を探すため、バイレスリーヴ議会の六名の旧議員を思い浮かべた。


 商業者ギルド会長、ルーガット。

 冒険者ギルド会長、アドホック。

 衛士長官、ディナリエル。

 海運ギルド会長、ユーラハン。

 学園長、ダイアナ。

 世界神教バイレスリーヴ教会司祭、ムスタ。


 このバランスを崩さずに、穴を埋めるには……。


「……僕にはまだ、ダイアナさんの後任者までは見えてきません。ただ、もし選ぶなら、彼女と同じ教育・福祉の分野か、あるいは地方の有力者を探すのが、バランス的に良いかと思います」


 ルーガットは、僕の返答を聞くと、葉巻の灰をコンと落とした。表情が読めない。


「……晩年のエドワルドと似て、保守的だな。儂はもっと若々しい、無茶な提案を期待していたのだが」


(うぐっ……)


 要求が難しすぎる。いっそのこと「議会解散!」くらい叫べばよかったのか?いや、そんなことをしたら即刻つまみ出されるだろう。


「し、精進します。ただ、今はとにかく、ここ一カ月間停滞した政治を少しでも早く動かすべきかと考え、無難な人選が良いかと思った次第です」


 僕は冷や汗をかきながら付け加えた。


「ほぉ。……しっかり考えているな。奇をてらうだけの能無しよりは、よっぽど利口だ」


 ルーガットの口元が、わずかに緩んだ。(助かった……)僕の安堵を見透かすように、彼は両手を組み、僕をじっと見つめた。


「ただな……この街では、現状維持は後退を意味する。この街は常に、窮地でより深く屈伸し、より高く跳躍してきた。そのための閃きがあったなら、いつでも提案してほしい」


 現状維持は後退。その手一つで巨額の富と街を築き上げた、怪物商人の哲学。言葉の重みが、ズシリと腹に響く。


「《憂国哀史》のあとがきでも、そう締めくくられていましたね」


「ふむ。……拙著を読んでおったか。いやはや」


 ルーガットは不意を突かれたように目を丸くし、照れくさそうに髭を撫でた。かつては僕を睨みつけ、辛辣な言葉を投げてきた怖い老人。だけど、同じ卓につき、同じ方向を向いて話す彼は、何よりも心強い「先達」だった。


「して……ディナリエルよ。ザーラム帰りの商人から聞いた話だが……」


 ルーガットは声を潜め、前傾姿勢になった。その瞳に、商人の欲とは違う、鋭い諜報の光が宿る。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/北区域/アードレリグ墓地【視点:元首オリアン】


 商業者ギルドを出た後、僕たちはダイアナの自宅へ向かった。だが、家は固く閉ざされていた。「……おそらく、あそこだ」ディナリエルの案内で向かったのは、街の北西、海を見下ろす丘にある《アードレリグ墓地》。


 潮風が吹き抜ける静寂の中、一人の老婆の姿があった。真新しい石造りの墓の前に、小さくなって座り込んでいる。


 僕たちが静かに近づくと、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。その顔を見て、僕は息を呑んだ。一気に十年は老け込んだように見える。頬はこけ、目元には深い隈が刻まれていた。


「自宅に寄ったのだが……留守だったので。……彼のところだろうと」


 ディナリエルが、痛ましそうに声をかける。


「そう。……あら、オリアンも来てくれたのね」


 力のない声。僕たちは、彼女が祈っていた墓――ローカンの名が刻まれた石碑に向かって、跪き、祈りを捧げた。陽気で、ぶっきらぼうだった赤髪の剣士。彼もまた、この街を守ろうとして散った一人だ。


「ディナリエル。……彼を死なせた男は……まだ見つからないの?」


 ダイアナの声色が、ふと変わった。顔を上げ、ディナリエルを見つめるその瞳。そこには、深い悲しみの奥で、決して消えることのないどす黒い憤怒の炎が燻っていた。


 ローカンの仇、シェルク。彼は大会後、煙のように姿を消した。ダイアナは私財を投げ打ち、冒険者ギルドに彼を見つけ出し殺害するよう、闇の依頼を出しているという噂だ。


「……私が聞く限りでは……まだ、足取りは掴めていない」


 ディナリエルは、友の狂気から目を逸らすように俯いた。


「そう……」


 ダイアナは短く呟き、興味を失ったように視線を戻す。


「オリアン、お友達は元気かしら」


「は、はい。お陰様で。グリンネルとキノルは先日、旅支度を整えてこの街を発って行きました」


「そう……。若い子は、世界を旅したほうが良いのよ。いろいろと見て回って……それで一番居心地がいい場所に戻って、最期を迎えるの」


 彼女は、墓地から伸びる街道の先、遠い空を見上げた。その瞳は、ここではないどこか、あるいは戻ってこなかった「あの子」の姿を追っているようだった。


「あの子にとっては……この街が、そういう場所であれたっていうことかしらね」


 独り言のようなその言葉には、息子同然の彼を死地に追いやった自分への責苦と、せめてもの救いを求める贖罪の響きがあった。


「ダイアナ、邪魔して済まなかった。ルーガットが心配していたのでな。……謹慎が明けたら、また戻ってきてほしい」


 ディナリエルが、祈るように告げる。


「僕からも……お願いします」


 僕は深々と頭を下げた。かけるべき言葉が見つからなかった。


「ふふ。……あまり期待しないことね」


 彼女は寂しげに笑うと、再びローカンの墓に向き直り、跪いて手を合わせた。その背中はあまりに小さく、そして拒絶的だった。彼女の心はまだ、あの雨の夜に置き去りにされたままだ。


 ディナリエルが目配せをし、僕たちは静かにその場を離れた。


「……ディナリエルさん。僕も、両親に挨拶をしていきます。すっかり報告が遅れてしまいましたから」


 僕は、多くの墓石から少し離れた場所にある、二つ並んだ墓石の前へと歩を進めた。父エドワルドと、母の墓。


 石の冷たさが、膝を通して伝わってくる。僕は手を合わせ、目を閉じた。


(父さん、母さん。……僕は、生きています)


 情けない姿も晒した。たくさん泣いた。だけど、仲間ができて、信頼できる大人たちに出会えた。まだ足は震えるけれど、それでも。


(僕は、頑張っています)


 風が吹き抜け、墓地の木々をざわめかせた。それはまるで、誰かの静かな肯定のように聞こえた。

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