S-66 「早く……殺して……」★
【警告】今回は敵キャラクターによる、非常に不快かつ残酷なシーンが含まれます。耐性のない方は閲覧を強く推奨しません。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/元首の館/客室【視点:蒼髪の少女イル】
ゴボ、ゴボ……。
くぐもった水音が、頭の奥で響いている。
それは、底冷えするような、いつかの深い海の記憶。光の届かない、永遠に続く静寂と圧力の世界。私はどのくらいそこにいたのだろうか。そうなる前には、何があったのだろうか。
まどろみの中、足に冷たい何かが絡みついてきた。海藻ではない。もっと生々しく、粘着質ななにか。それは足首から這い上がり、腕を、胴体を、慈しむように締め上げていく。
深淵から這い出る、不気味な黒い触手。
(……なによ、これ)
私は驚き、周囲に漂う「粒」に意思を飛ばし、それを払いのけようとした。しかし――。
その深蒼の触手は、他者ではなかった。私の皮膚と融合し、私の肉体から生えていた。それは、私自身の一部だった。
■ ■ ■
「――っ!?」
恐怖に弾かれたように、意識が浮上した。重いまぶたを開ける。そこにあるのは見慣れない天井。オリアンの館の客室だ。
「うぅん……ん?」
夢か。安堵の息を吐こうとして、喉が詰まった。気配がする。それも、一人ではない。
私は反射的にベッドから起き上がろうとした。だが、体が鉛のように重い。手足の自由がきかない。
指先ひとつ動かせない。金縛り?いや、違う。物理的な拘束ではない。空気が、空間そのものが、私を押し潰している。
「……警戒していたんだが。余りにも気づかないから……驚いたよ」
足元から、男の声がした。視線だけを動かすと、厚手のローブを着て口元を隠した二人の人影が、ベッドを冷徹な眼差しで見下ろしていた。
(侵入者……!?いつの間に!)
『ルト!起きて!どうしよう!』
私は自分の中に眠るルトを起こそうと、必死に意識の奥へ呼びかけた。いつもなら、私のピンチには嫌味なほど冷静な声が返ってくるはずだ。
しかし、返事がない。彼との繋がりが感じられない。まるで、私の中にぽっかりと穴が空いたような虚無感。
(嘘……なんで!?)
焦る私の目に、男の一人が掲げている「光源」が映り込んだ。古びた真鍮のカンテラ。その中では、見たこともない禍々しい紫色の炎が揺らめいている。
その光を見た瞬間、私は寒気を覚えた。
世界を構成する無色の粒――《イデア》。いつもなら穏やかに漂っているはずのそれらが、カンテラから放たれる光に触れた途端、悲鳴を上げて逃げ惑っている。部屋の中のイデアは、嵐の海のように激しく乱れ、渦を巻いていた。
(……ああ、そういうことか)
この状態では、イデアに「志向性」を持たせることなんて不可能だ。命令を聞くどころか、私の意思すら届かない。そして、主成分がイデアの塊である霊体のルトは、この粒子の嵐に巻き込まれ、意識を維持することすらできずに強制的に沈黙させられているのだ。
「……もご」
声が出せない。カンテラを持った男が、私の口元に湿った布を押し当てていた。鼻腔を突く、甘ったるく刺激的な臭い。
「静かに眠れ。……痛みはない」
男の言葉が遠くなる。視界の端で、紫色の炎がゆらりと揺れた。それが、私が最後に見た光景だった。
■ ■ ■
ザーラム首都/ザラマーダ/牢獄【視点:情婦の潜入者ウィスカ】
痛い。熱い。寒い。感覚の境界線はとうに溶け落ち、全身がただ「苦痛」という一つの信号だけを発し続けている。
腐った水と錆びた鉄、そして排泄物と鮮血が混じり合った濃厚な悪臭が、鼻腔を犯し続けている。
暗く湿った石造りの部屋。壁に染み付いた黒い染みは、ここで散っていった数多の絶望の痕跡だろうか。どれほどの時間が経過したのか。一時間か、一日か、あるいは数日か。時間の概念は消失し、ただ永遠に続く地獄だけがそこにあった。
ベチッ、ブチリ。
「ア”ッ!!!ギィ、ア”ア”アァァァア”ッ!!」
喉が裂けるほどの絶叫が、私の意思とは無関係に迸る。
足の親指。錆びついたペンチが、爪と肉の隙間に無慈悲にねじ込まれ、生木を裂くような湿った音を立てて、爪が根元から剥離された。神経が焼き切れるような白い火花が脳髄を駆け巡る。剥き出しになった爪床が空気に触れ、脈打つたびに激痛が脳を揺らす。
「おや……ほほほほ。思っていたほど利口ではないようですね」
目の前には、この世のものとは思えない醜悪な生き物がいる。
全身の体毛が一本もなく、ゆで卵のようにツルリとした頭部。極度に至近距離で見ると、白く透き通った皮膚の下で、青黒い血管がミミズのように脈動しているのが見て取れた。
ザーラムの拷問官ザゴス。地下牢に潜む薄気味悪い怪物。奴は、私の苦悶の表情を極上の肴にするかのように、彼は不揃いに生えた黄色い歯を剥き出しにして、ねっとりとした愉悦に浸っている。
「……っ、ひぅ……」
全身を締め上げる荒縄が、腫れ上がった皮膚に食い込み、肉を擦り切っている。数え切れないほどの鞭打ちで背中は裂け、傷口が乾く暇もなく新たな血が噴き出す。
そして、爪剥ぎ。手の指はとうに十本すべて、赤黒い肉塊と化した。一枚、また一枚。私の体から「硬い部分」が失われていく。
それを耐え抜いた先に何が待っているというのだろうか。まだ、正気を保っていられる自分の頑丈さが憎い。いっそ狂ってしまえば、この痛みから逃れられるのに。早く、壊れてしまいたい。
「ささ、私は結果をあせらないのでね。じっくり、時間をかけて、骨の髄まで愛してあげますよ。ほほほほほ」
拷問官は、剥ぎ取ったばかりの私の足の爪を、ピンセットでつまみ上げた。血と肉片が付着したそれを、彼はあろうことか、無防備に晒された私の傷ついた肉へと、ゆっくりと押し当てた。
「あ、が……ッ!?」
硬く鋭利な異物が、ねっとりと擦り上げながら沈んでいく。肉を抉られるような激痛と、生理的な拒絶反応が、背筋を駆け上がった。
自分の体の一部だったものが、今は私を汚し、突き破ろうとする凶器となって埋め込まれていく。
「う、ぐぅ……ッ!や、やめ……!」
「改めて聞きましょう。お前は誰で……何者の指示で動いているのか」
拷問官が顔を近づけてくる。腐ったドブのような口臭が、私の顔にかかる。黄色く濁った眼球の奥には、尋問の答えを求める理性などなく、ただひたすらに「壊すこと」を楽しむ嗜虐の色だけが渦巻いていた。
(早く……殺して……)
限界を超えた意識の端で、私はただ、終わりの時を乞うていた。




