S-65 「キミは、僕のなんなのですか」
バイレスリーヴ/元首の館/客室【視点:蒼髪の少女イル】
この部屋は、オリアンが私に貸してくれている客室だ。安宿の《赤帽子》とは比べ物にならない、天蓋付きのベッドがある立派な部屋。
「おかえりなさいませ、イル様。湯あみの準備ができております」
部屋に到着するやいなや、夜当番の使用人が恭しく声をかけてきた。
「わあ、ありがとうございます!」
『……良かったですね。イルの磯臭さと、染み付いた酒の臭いがようやく洗い流されます』
脳内でルトが憎まれ口を叩く。
『はー。こいつ殺したい』
『もう殺されてます』
■ ■ ■
案内された館の浴場は、溜息が出るほど豪華だった。広々とした石造りの浴槽。大きな窓からは月明かりに照らされた海が一望できる。
私は、腰紐を解き、身に纏っていたドレスを脱ぎ捨てた。衣擦れの音と共に、重たい布が床へと滑り落ちる。
月明かりが、露わになった私の肌を青白く照らし出した。鏡に映るのは、人間離れした白さを持つ肢体。ふくよかな胸の膨らみから、くびれた腰、そして滑らかな曲線を描く太腿へ。遮るもののないその姿は、夜の冷気を受けて微かに粟立っている。
我ながら完璧な擬態。この姿は…私が初めて見た人間。《ノルデザイ》の氷の中に閉じ込められていた彼女の姿を真似したものだった。
「ふぅ……。やっぱり、裸が一番落ち着く」
私は伸びをするように両手を高く上げ、そのまま無防備に浴槽の縁へと足をかけた。つま先から、熱い湯の中へと身体を滑り込ませる。
チャプン……。
お湯が溢れ、床を濡らす音。私は肩まで深く湯に浸かり、大きく息を吐いた。
「はぁ……最高かよ」
温かいお湯が、身体の芯まで染み渡っていく。水の中は、私の故郷だ。たとえ真水でも、温かくても、包まれる感覚は変わらない。
湯船の中で、腰まである長い蒼髪がゆらゆらと広がっていく。それはまるで、透明な水にインクを垂らしたように、あるいは夜空の銀河を溶かし込んだように、浴槽いっぱいに神秘的な蒼い波紋を描いた。
私は悪戯っぽく、水面から膝を突き出してみる。濡れて艶を帯びた肌の上を、透明な雫が滑り落ち、太腿の付け根へと吸い込まれていく。浮力に任せて身体を預けると、お湯の中で胸がふわりと揺れた。
『……イル。あまり無防備に身体を晒すのは感心しませんね』
ルトが呆れたような声を出す。
『なによ、誰も見てないじゃん』
『僕が見ています』
『あ、そっか。……ねぇルト、じっくり見てるの?』
私はニヤリと笑い、わざとらしく身体を捻って、濡れた背中と豊かな胸元のラインを強調してみせた。お湯に濡れた鎖骨のくぼみに、雫が宝石のように溜まっている。
『……視覚情報の共有を切っていないだけです。勘違いしないでください』
『ふーん。顔、赤くなってない?』
『霊体に血液はありません』
『つまんないのー』
私は飽きて、ブクブクと口元までお湯に潜った。揺らめく水面越しに見る月は、海の中から見ていた景色と少し似ていて、とても綺麗だった。
『井戸水を引き上げ、貴重な石炭で湯を沸かしているのでしょうね。……イル一人の身体を洗浄するためだけに、莫大な労力と資金が浪費されている』
人が気持ちよくお湯につかっている時に、水を差すようなことを言う。相変わらず、この幽霊は性格が悪い。
『私は常に、感謝の気持ちでいっぱいだよ?ルトと違って』
ただ、そう言われると、今の私の状況は確かに「居候」そのものだ。オリアンからすれば、私は決闘大会の勝利には多少貢献したかもしれない(ほとんど囮だったけど)。
だが、特に誰かと戦ったわけでもなく、「数合わせの女」という街の人の評価は、あながち間違いではない。
生を受けてからしばらく、私は海の生き物をほぼそのままの形で食べ、水中を漂いながら眠る暮らしをしていた。
だけど、この大陸に上陸して、この街で初めて「屋根の下のベッド」という文明的な睡眠環境を知ってしまってからは、あの野生の生活に戻ることに多少の抵抗がある。
三食おやつ付き。湯あみまで用意されている環境。あまつさえ、ルトの蘇生魔術に必要な魔石を探すという名目で、この街の居心地の良さに甘んじている今の私。
(……明日から、本気出そう)
お湯に顔半分までつかりながら、ブクブクと決意を新たにした。
『……あの。そろそろ出ないと、海産物の出汁が出ますよ』
『うっさい!』
■ ■ ■
柔らかな湯気が消え、夜の静寂が戻ってくる。
湯あみで身体をさっぱり流し、私は自室のベッドに腰掛けていた。
片手には葡萄酒、膝の上には昼に《書店の書庫》で購入した分厚い本《偉大なる大陸シーア》。深々と差し込む月明かりの下、ルトに付き合って本を読んでいたのだが、次第に文字が霞んでくる。
『……ルト。読むの遅すぎて、眠くなってきた』
『そうですか。……まあ、仕方ありませんね。僕もそろそろ休息に入ります』
ルトの気配が、スゥッと引いていく。霊体としての活動を維持するため、彼もまた眠り――魔力の循環を必要とするのだ。
私の中での彼の存在が小さく、そして遠くなっていく。
本を閉じ、サイドテーブルに置く。ガウンだけを羽織り、眠る前の儀式として葡萄酒で喉を潤してから、ふかふかのベッドへ横になった。
外敵に狙われることのない、守られた空間。そのありがたみを噛み締めつつ、私は深く柔らかな眠りに身を委ねた。意識がゆっくりと薄れていく中、窓の外から聞こえる潮騒だけが、遠い故郷の子守歌のように響いていた。
■ ■ ■
彼女の呼吸が、深く、規則正しいリズムを刻み始める。それを確認した瞬間、僕の意識は鋭く冴え渡った。
休息?そんなものは必要ない。魔力の循環など、意識の片隅で行えば済むことだ。僕はただ、彼女の意識が途切れるのを、暗闇の中でじっと待っていただけだ。
静寂に包まれた客室。窓から差し込む月明かりが、ベッドに横たわる彼女を白く照らし出している。僕は音もなく彼女の身体から枕元へと浮かび上がった。
無防備な寝顔。
起きている時は、減らず口ばかり叩き、僕の神経を逆なですることばかり言う。
だが、こうして静かに目を閉じていると、驚くほど幼く、そして儚げに見える。
月光を吸って輝く髪が、シーツの上に散らばり、僕の視界の中で唯一の「光」として存在を主張している。
「…………」
僕は、その寝顔を見下ろした。ほんの数刻前まで、僕は彼女を便利な道具としか認識していなかったはずだ。底知れぬ魔力適性を持ち、僕の目的に利用できる都合の良い人形。
だが、今は違う。骨片を慈しんだ彼女の指先の温もりを思い出すたび、心臓のない胸の奥が、チリチリと焼けるように熱くなる。この無防備な寝顔を、誰にも邪魔されず独占していたいという衝動。愛おしい、という、生前ですら抱いた記憶のない感情が、僕の思考を塗りつぶしていく。
(キミは、僕のなんなのですか……イル)
問いかけても、返ってくるのは穏やかな寝息だけだ。
僕は、衝動に突き動かされるように、ゆっくりと右手を伸ばした。透き通った、実体のない指先。
それを、彼女の頬へと近づける。昼間、彼女が骨片に見せたような慈愛を込めて。その柔らかな肌の感触を、温もりを、この手で確かめたくて。
―スッ。
僕の指は、何の抵抗もなく彼女の頬をすり抜けた。
「…………っ」
分かっていたことだ。僕は亡霊。この世に干渉する力を持たない、過去の残滓。それでも、触れられないという現実は、想像以上に僕の心をえぐった。
もどかしさと、切なさと、どうしようもない渇望。
行き場を失った指先を、今度は彼女の唇へと向けた。わずかに開いた、柔らかな唇。そこに触れることができたなら、どれほどの充足感だろうか。
あとわずか。指先が触れるか触れないかの距離で、僕は手を止めた。
(……今はまだ、この距離でいい)
これ以上近づけば、僕自身が壊れてしまいそうな気がした。僕は、触れられない指先を彼女の唇の上に浮かべたまま、ただ静かに、その穏やかな寝顔を見つめ続けた。月明かりだけが、叶わぬ願いを照らしていた。




