S-64 「なんとなく、分かるから」
バイレスリーヴ/裏通り【視点:蒼い髪の女イル】
夜の冷たい潮風が、上質な葡萄酒で火照った私の肌を撫でていく。熱が冷まされる感覚が心地いい。
私は《黄金の潮風亭》からの招待を受け、今宵はひとり、宴の席へ出向いてきた帰りだった。
決闘大会以来、この街の空気は劇的に変わった。ブーアやザインといった悪党が姿を消し、違法な薬物が浄化されたことで、夜の裏通りには穏やかな静寂が戻っている。
以前のように、角を曲がるたびにチンピラに絡まれる心配もない。私は、「ただの商人」や「数合わせの女」として、街の人たちから奇妙な親しみを込めて迎えられるようになっていた。
今夜の宴も最高だった。豪快な肉料理が振る舞われ、店主グラースさんの豪快な笑い声が響く。娘のバラや、ファウラたち店員の気遣いも温かい。特筆すべきは酒だ。入荷されたばかりの琥珀酒や《アライゲ・オー》は、一度舌に乗せれば忘れられない絶品で、ちゃっかり小瓶に分けてもらってしまった。
「ふふっ……美味しかったなぁ」
今宵の会は、本当ならオリアンも一緒に行くはずだった。けれど、彼は「仕事がある」と言って辞退した。
『……仕事、ですか。便利な言葉ですね』
私の中の同居人、ルトが冷ややかな声を響かせた。
『キミの「正体」を見てしまった動揺を隠すための、苦し紛れの方便でしょうに』
『にゃはは……。やっぱり?めちゃくちゃ動揺してたもんね』
私は苦笑する。今日の昼、私はルトとも相談の上、オリアンに自分の「本当の姿」を曝け出したのだ。
理由はいくつかある。
今後の活動のための打算的な計算。だけど、一番大きな理由は、もっと単純で、感情的なものだ。あの死闘を共に駆け抜けた彼やグリンネル、キノルに対して、何かを隠したまま接するのが嫌だったから。(……そんな「人間くさい」本心をルトに知られたら、一生の不覚として弄り倒されそうだから、口が裂けても言わないけど)
グリンネルとキノルには伝える機会を逃してしまったけれど、オリアンから改めて私の素性を問われた時、ちょうど良い機会だと考えたのだ。
しかし、結果は惨敗だった。私の姿を見た瞬間の、彼の反応。琥珀色の瞳を極限まで見開き、小刻みに震え、押し殺したような喘ぎ声を漏らして後ずさった。
拒絶、あるいは根源的な恐怖。
それを見た途端に失敗を悟り、「やっぱ無かったことで」と茶化して誤魔化すしかなかった。あれ以来、オリアンはどこか私を避けるようによそよそしい。
『だから言ったじゃないですか。……キミの存在は、あの乱入者と同じ、この地上においては忌むべき天敵。外海の魔物そのものなのですから』
ルタルタ。決闘大会に乱入してきた「私の追っかけ」。確かに、彼に対する人々の絶望的な反応を見れば、オリアンの反応も当然の帰結だったのかもしれない。
『だからこそ、隠しておくのは嫌だったんだってば。長く居たら、そのうちバレるでしょ?』
私は肩にかけた革袋を持ち上げ、葡萄酒を一口含んだ。芳醇な香りと液体が、乾いた喉を潤していく。
『常にこんな革袋を持ち歩いて、四六時中水分補給してる地上人なんかいないでしょ?』
『……重度の酒精依存者なら、存在しますが』
ルトの静かな皮肉は聞き流す。
『イル。一つ確認ですが……この街に、しばらく滞在するつもりなんですか?』
ルトが意外そうに問いかけてきた。彼は一刻も早く《大いなる五つ》の魔石を探しに行きたいはずだ。
『うーん。オリアンとこうなった以上、分からないけど……』
私は夜空を見上げた。満月が、海面を青白く照らしている。
『私はこの街の「雰囲気」が好きなんだよね。他の街をほとんど知らない私が、そう決めるのは変かもしれないけど。だから、しばらく滞在するっていうか……かつての《ノルデザイ》の時みたいに、私はこの街を、しばらく拠点にしたいんだと思う』
まとまらない考えを、そのまま口にする。
『……なるほど。確かに、街を動かす重鎮達から民衆に至るまで、イルは「英雄の仲間」として認知されました。活動の基盤としては悪くない』
ルトは合理的に分析する。
『ですが、キミの正体を知ったオリアンがどう出るかが懸念事項です。もし彼が恐怖に駆られて告発すれば、この街どころか、《人治の平原》全土のお尋ね者になりかねない』
『大丈夫だよ。彼は絶対に人には話さない』
『根拠は?』
『……なんとなく、分かるから』
ルトは呆れた気配を見せたが、私の見立てには根拠がある。私は、その者が纏い、周囲に浮遊する《イデア》の性質を見ることで、その者の思考や感情の波長をある程度読み取ることができるのだ。
ルトの霊体の色が感情によって変わるように、人々が纏うイデアもまた、心の色を映し出す。
当初、不安や怯えの濁った色を示していたオリアンのイデアは、今では自信や使命感を示す澄んだ色に変わってきている。
今日の昼、恐怖の色は混じったけれど、私に対する裏切りや悪意を示す「刺すような色」は一切感じられなかった。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか崖の上、元首の館に到着していた。




