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S-56 「ここ」

バイレスリーヴ/元首の館/地下の書庫【視点:幽霊王子ルト】


 地下書庫に、ランプの頼りない灯りが揺らめいていた。光の届かない棚の奥は、まるで深淵のように黒く塗りつぶされている。


『ルト、まだ?読むの遅くない?』


 イルは退屈そうに僕の肩をつついた。彼女の手元にあるのは、広げられたままの禁書《イスカ平野の幻の国と失われた民》。僕は今、彼女の身体から半身を遊離させ、直接その文字を追っている。


『……自分が読むのが早いからって、そうやって僕を煽って楽しいですか?』


『うん、楽しい。最高かも』


 最近のイルは、交友関係の影響か、語彙が増えてきた。だが、根底にある性格の悪さは変わらない。むしろ磨きがかかっている。


『……今気づいたんですが、僕は今、霊体として分離しているんです。イルは自分の好きな本を勝手に読めばいいのでは?なぜ僕に合わせて待っているんです?』


『あ……ほんとじゃん。いつもの癖で……』


 僕は普段、他者に存在を悟られぬよう、彼女の身体の深層に潜んで視界を共有している。今は密室だからこそ表出しているのだが、彼女はうっかり「非効率」な僕に合わせていたらしい。


『相変わらず抜けたところありますね、イルは』


 僕が彼女に嫌味を言うころには、彼女は二冊目の本《呪いの皮書メズマラ》をパラパラとめくっていた。


 相変わらず、イルの速読能力とそれを記憶する能力は凄まじい。彼女は普段、抜けている感じを醸し出しているが、いざ集中する体制に入ると、彼女の思考能力は人のそれをはるかに凌駕する領域に達する。


 その気になれば、生命を超越した《全知の領域》に達することも難しくないだろうが、それを「違う気がする」といってやらないのがイルという生き物だ。


『へぇ、ねぇルト、ニーネッドさんが言ってた、『知識のためなら手段を選ばず…』ってやつ。《冥府のマルヴ》ってキノル達が答えてたけど。この本にも出てくるよ』


 イルが本を読みながら突然語り掛けてきた。


『え、あぁ、あの事ですか。はい。そうなんですね』


 僕の頭の中には疑問符が大量に浮かんでいた。そんなこと急に言われても思い出せない。確かにオリアンは本屋で知識をひけらかしていた。その時にそんなことを語っていたかもしれないから、忘れたというのが悔しかったのもあり、適当に返答しておいた。


『ルトは知ってる?冥府のマルヴ』


 イルは次の書籍を開いて目まぐるしい速度で読み込みながら語り掛けてきた。


『いや、色んな魔道具アーティファクトを残した偉人という印象しかありませんね』


 正直あまり興味がなかったため、それなりの相槌にとどめた。しばらく沈黙。本をめくる音だけが聞こえる。


『あの、イル、一ページめくってくれませんか?』


 彼女が既に三冊読み終わる中、僕は一ページしか読み終えていないことが、なんだか悔しかったけど、自分でページをめくれない以上、頼むしかなかった。


『あ、はいはい」』


 彼女は一ページだけ、パラリとめくる。その音に僕は哀愁すら感じた。


「へー。外海の連中…《ヴュール(外界からの侵略者)》は、これまでの歴史の中でも、ちょいちょい大陸に上陸して、迷惑かけてるんだ」


 またイルが独り言のようにつぶやく。僕はそれに反応することなく、目の前の本に集中する。


「あー、もしかして大陸の人たちは、自分たちでは対処できない海の驚異を《邪神ルヌラ》って偶像化したのかも。二次造作的に《深海からの呼び声》とかいう怪しげな読み物まで作られたのかな、へぇ。面白ー」


 彼女は更にぼそぼそと、考え事のようにつぶやいている。


「神話というのは、往々にそういうものなのでしょうね」


 再び、静かな時間が流れる。僕が嫌味を言う頃には、彼女はもう二冊目の《呪いの皮書メズマラ》をパラパラとめくっていた。


 イルの「高速読書」の機能は、相変わらず凄まじい。普段は抜けているが、集中した時の演算速度は、常人のそれを遥かに凌駕する領域に達する。


 再び、静寂が戻る。


 僕が読んでいる《イスカ平野の幻の国と失われた民》。これは間違いなく、ずっと探し求めていた、僕の故郷の歴史書だ。


 記述によれば、イスカ平野の北部に300年前に存在した《イスカ・ファル王国》では、魔術の研究が盛んに行われていた。


 その後の《人魔戦争》により研究は停滞したものの、魔族の首魁を討ち取った勇者一行の仲間である「大魔術師」が王妃となったことで、再び活性化。現在「禁術」とされる魔法をいくつも生み出したという。


 しかし、その大魔術師の早逝を機に、国内は乱れ、骨肉の争いが勃発。最後は《大罪の魔術師》が発動した大規模魔疫魔術《アン・フラー・ドゥフ:黒の死滅》により、国民は死に絶え、禁足地と化した――。


 王国の家系図に記された名。王《イスカリア5世》。


 これは僕の父だ。そして、その妃であり、大魔術師フィナリア。これが、親愛なる母様。そして、その息子である第六王子ルトハール・ベオ・イスカリア……それが、僕だ。


 その文字を目で追った瞬間、僕の頭の中に、記憶の奔流が押し寄せた。


 ■ ■ ■


(追憶)


「ねぇ、母様。どうやったら母様みたいに凄い魔法が使えるようになるの?」


 幼い僕は、母に駆け寄る。


「ふふふ、そうね。世の中の色々を見て回り、全てを知ることができれば……あるとき突然、頭の中に降りてくるのよ。《全知の領域》の扉を開ける鍵が」


「そういう意味では、私もまだまだだけどね」


 母の言葉の意味は、幼い僕には理解できなかった。


「へぇ、そうんだ!」


「でも、母さんは、ルトにそうなってほしくないわ。今のままのルトでいいのよ。……もちろん、兄さんも」


 場面が変わる。緑豊かな庭園。そこでは、燃え盛る炎、吹き荒れる風、大地を揺るがす力が轟音を立てていた。そこで魔法の鍛錬をしているのは、母様譲りの才能を持つ兄。彼は、常に向こう側を向いており、顔が見えない。


「でも、僕も手に入れたい!その扉の鍵!」


 僕は、大好きな母様の……陽だまりと百合の香りに包まれたくて、抱きついた。


「あらあら……ルトったら」


 そんな僕に気づいたのか、庭園に立つ「彼」が、ゆっくりとこちらを振り返ろうとした。その瞬間。赤黒い何かにその記憶が塗りつぶされてしまった。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/元首の館/地下の書庫


 その彼が、どんな顔で、どんな表情をしていたか。思い出そうとしても、その輪郭すら掴めない。


 僕は悟った。それを思い出すには、途方もない時間が、僕の記憶を風化させてしまったのだと。


 なぜなら、この書籍は今からおよそ1080年前に書かれたもの。そして、その記述は「イスカ王国は300年前に滅びた」と断言している。


 単純な計算にもかかわらず、その数字を導き出した瞬間、僕の呼吸は詰まった。


 つまり、今、僕が死んでから、おおよそ1400年もの歳月が経過していることになるからだ。


 1400年。


 そのあまりにも長すぎる時の流れが、音もなく、僕の胸を押しつぶしたように感じた。


 イルの視線が、文字の羅列を滑っていく。


『へぇー。ルトのお母さん、凄い魔術師だったんだね』


 彼女は本から顔を上げ、しみじみと言った。


『……ええ。至高の魔術師です』


『だから息子がこんな魔法狂いになっちゃったんだ……。かわいそう、お母さん』


『……核心を突きすぎていて、返す言葉もありませんね』


 僕は冷ややかに吐き捨てたが、胸の奥はざわついていた。


 生前、僕は魔術を極めるためだけに生きてきた。憧れの母様のような大魔術師に、そして《全知の領域》に辿り着きたいと願い続けてきた。


 その執着は死後も変わらず、暗い闇の中で1400年もの間、ただひたすらに魔術の深淵を覗き込み続けてきたのだ。


 だが、僕はいまだに母様の領域には到達できていない。


 ―――今のままでいいのよ、ルト


 記憶の中の母様の言葉。あれは慈愛だったのか。それとも、僕に魔術の才能がないことを見抜いた上での、残酷な慰めだったのか。


(……いいや。僕は偉大なるフィナリアの子だ)


 その時、僕はかつてイルが口にした奇妙な言葉を思い出していた。


 ―――ルトには見えないの?この世界を作ってる、小さな粒


 出会って間もない頃、彼女はそう言った。魔力ではない。それよりもっと根源的な、物質を構成する極小の「粒」。


 僕が捉えきれない何かを、この「器」は視覚情報として認識している。…僕には理解できなかったから、彼女はもうその話をしないけれど。


 それがもしかしたら魔術に関する重要な要素だったとしたら。


 僕はない肌の毛穴が閉じる感覚を覚えた。


 幻妖魔法《ファルサムナ(偽りの確信)》


 あの闘技場で彼女が使った魔法は、もはや魔法と呼べる代物ではなかった。


 その規模は、僕が教えたものをはるかに凌駕し、その魔力操作は精緻であり、大勢の観客の一人一人の思考を、違和感ないものへと塗り替えた。


(絶対に言わない。絶対に言わないけど…イルはもう…)


『ルトの国、ずいぶん昔に無くなっちゃってるね。これからどうする?』


 僕の思考をかき消すように、また一冊の本を読み終えたイルが語りかけてきた。


 彼女は、ここの書物から僕の故郷の消滅を知ったはずだが、湿っぽい気遣いは見せない。事実を事実として突きつけてくる。それが彼女の良いところであり、同時に人間的な情緒の欠落を感じさせるところでもある。


『……まだ本を全部読んでいないので判断できませんが』


 僕は努めて冷静に返した。


『イル。記述された地形情報、気候、植生……それらと現在の地図を照合し、僕の祖国があった場所を推測できますか?』


 祖国の場所を特定できれば、そこに残された手がかりから、魂の呪縛を解く鍵が見つかるかもしれない。


 イルは、僕の問いに対して、少しの間思考を巡らせた。彼女の黄金色の瞳が、虚空を見つめ、膨大な情報を編み上げていく。


 やがて、彼女は短く呟いた。


『――ここ』

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