S-50 「何かが、決定的に間違っている」
バイレスリーヴ/闘技場/舞台【視点:臆病者オリアン】
僕の視界全体が冷たい水の中に沈んだように揺らぎ始めた。
イルの姿は、まるで熱せられた空気の向こう側にあるかのように、ぐにゃりと歪んでいく。輪郭は曖昧になり、光の筋が彼女の周りで細かく波打ち、焦点が合わない。
彼女との間に引かれた現実の線が、溶け始めたようだった。
世界が、歪む。
頭の中で意識が途切れて目覚めたような感覚を覚えた。いや、違う。「途切れた」のではない。
何かが、僕の記憶を――
■ ■ ■
遠くから、大勢の人々の歓声が聞こえる。
「な、何と!なんとなんと!この戦い、オリアン陣営の勝利が決定しましたー!!」
司会サファルの高らかな声が、まるで僕を驚かすために背後から突然かけられたかのように、闘技場に響き渡る。
(え?)
その甲高い叫び声に、僕は激痛を感じてあたりを見渡した。
僕の両脚は激痛で震えながらも、どういうわけか立っている。立っている?僕が?なぜ?
僕の仲間はどうだ。グリンネルとキノルは両肩や両脚から血を流して倒れ、動くことができずにいる。それは、覚えている。彼らが倒れたことは、覚えている。
だが――
相手の陣営に目をやると、ブーア、ザイン、そしてシェルクは、三人とも倒れてピクリとも動かない。
(なぜ?)
なぜだ?どうしてだ?僕の頭の中は、巨大な疑問符で埋め尽くされていた。
彼らが倒れている。それはいい。だが、誰が倒したんだ?
僕じゃない。僕にそんな力はない。
グリンネルも、キノルも、倒れている。
じゃあ、誰が?
そんな僕の困惑を意に介さぬよう、司会のサファルの声が響く。
「最後は、なんとオリアン候補者本人の手により、あの宿敵ブーアを討ち取ると言った、劇的な幕引きで終わりました!」
(は?)
サファルの声がこだまする中、僕は自分の右手に視線を落とした。
そこには、いつの間にかしっかりと握られていた一本の剣。
(いつ、僕はこれを?)
その刀身には、ランプの灯に照らされ、赤黒い液体が付着している。これは、ブーアの血なのか、それとも僕自身のものなのか。その区別すらつかない。
「え?」
僕は、かすれた声で呟く。いったい何がどうなっているんだ?
自分がどうやって勝ったのか、全く思い出せない。
いや、「思い出せない」というより――そもそも、そんな記憶が存在しない。
「おめでと、オリアン!」
その声に振り向くと、僕の後ろには、胸元が大きく開いた、青いフリルと金色の刺繍が特徴の黒い服を着た彼女、イルがにこやかに微笑みながら立っていた。
(ちがう)
(これは、ちがう)
ついさっきまで、何か、この光景とは全く違う何かを覚えていた。
イルは、倒れていた。いや、倒れていたどころじゃない。彼女は、壊れていた。
頭が潰れて、身体が穴だらけで、蒼い血溜まりの中に――
……いた?……はずなのに、今は全く何も思い出せない。
いや、「思い出せない」のではない。その記憶が、まるで最初から存在しなかったかのように、消えている。
全身を駆け巡る強烈な違和感だけが、僕の心を掻き乱す。その違和感の正体を知ろうと、僕は必死に記憶の断片をたどるが、空虚な空白があるだけだ。
いや、違う。空白なのではない。思い出そうとする度に、その記憶が、まるで霧のように掻き消えていく。
僕の困惑は最高潮に達し、呼吸すらままならなかった。
僕は記憶の断片を探すように、必死に闘技場中を見渡した。
まず目に飛び込んできたのは、待機場で頭を抱えて座り込んでいるアドホックの姿だった。彼は蒼白な顔で、まるで全ての気力を使い果たしたかのように、ただ一点を見つめて放心している。
(なぜ、彼はそんな顔を?)
次に視線を向けると、貴賓席に座るザーラムの執政官、バージェスが、不機嫌そうな顔でアドホックを睨みつけていた。
そのアドホックの元に、衛士たちが駆け寄り、彼の両脇を抱えて連行していく。彼は抵抗することなく、力なく引きずられていった。
(なぜ、アドホックは連行されていくのか?)
僕には理解できなかった。彼は、ただ敗北しただけのはずだ。なぜ、連行される?
僕の混乱を吹き飛ばすかのように、観客席からは轟音のような歓声が響き渡った。僕の勝利を祝福する声、大金を失って絶望する悲鳴、そして興奮して叫び続ける声。
様々な感情が渦を巻き、僕の耳に届く。
僕以外の全員が、この不可解な勝利が、現実であるのが当たり前であるかのように振る舞っているように感じた。
(おかしい)
これは、おかしい。何かが、決定的に間違っている。
その光景は、まるで僕だけが別の世界にいるかのような、強烈な疎外感を与えた。彼らの熱狂と僕の困惑が、同じ空間に存在していることが信じられなかった。
(何が起きた?僕は、何を忘れている?)
その時だ。
僕の頭の中で、何かが決定的に崩れた音がした。
いや、「崩れた」のではない。何かが、僕の頭の中に、流れ込んできた。
「なぜ忘れていたのか」という疑問が、「忘れてなどいない」という絶対的な確信へと、一瞬で上書きされる。
(いや、待て。これは――)
まるで石造りの水道に濁流が流れ込むかのように、無かったはずの「事実」が、僕の脳裏に、初めから彫像のように不動の真実であったかのように、一瞬で鋳込まれていく。
(違う、これは僕の記憶じゃ――)
そうだ、僕がブーアにとどめを刺したのだ。
(そんなはずは――)
あの巨大な鉄槌が振り下ろされた絶体絶命の危機の瞬間、僕は奇跡的に回避し、最後の力を振り絞って――。
(僕にそんなことができるわけが――)
その一連の動作が、細部まで鮮明に、感覚まで伴って、しかし感情を伴わずに、僕の意識に叩き込まれた。
まるで、誰か別の人間の記憶を、無理やり押し込まれているかのような――
(やめろ、これは僕の記憶じゃない!)
僕の内部で猛烈に暴れていたはずの違和感は、徐々に、徐々に、存在しなかったかのように消え去っていく。
(いや、待て。忘れるな。イルが、イルが――)
代わりに満ちてきたのは、圧倒的な勝利の多幸感だった。
(これは、ちがう。これは――)
僕は、その新しく、しかし真実であるはずの記憶に、もはや何の疑念も抱けなくなっていく。抵抗しようとする僕の意識が、まるで砂が指の間からこぼれ落ちるように、消えていく。
(イル……君は、何を……)
「あ、ありがとう!!」
僕は、心の底から感謝の言葉を叫んでいた。その言葉は、今までのどの言葉よりも素直なものだったかもしれない。
(これは、僕の言葉じゃない)
いや、違う。これは僕の言葉だ。僕の、本心からの言葉だ。
僕の声は、闘技場を包み込む轟音のような歓声にかき消されていく。観客たちの熱狂は最高潮に達し、その興奮は僕の肌を刺すように痛かった。
僕は、この熱狂の渦に飲み込まれることに、言い表せないほどの歓喜を覚えた。
(何か、大切なものを、忘れている気がする)
だが、それが何なのか、もう思い出せなかった。




