S-48 「僕の腕を…返せ」
バイレスリーヴ/闘技場/舞台【視点:臆病者オリアン】
僕は背後に強烈な殺気を感じた。
「ンヌラァ!!」
そう、グリンネルの前衛の壁が崩壊した瞬間、ブーアがすかさず接近し、あのヴュール並みの破壊力を宿す鉄槌を振り下ろした。
「オリアン!」
キノルが叫ぶ。彼女は、ブーアに向かって魔力を振り絞りながら作り、指先にとどめていた渾身の火球を放った。
「ケッケッケ!」
その火球を、ザインが狂気的な笑みとともに対魔ナイフを投擲し、真っ向から霧散させた。しかし、キノルの魔力は完全に打ち消されず、炎の礫が砕け散り、それがブーアの血走った両目を直撃する!
「グガァッ!」
一瞬、ブーアの狂奔が止まったかに見えた。だが、彼が振り下ろした鉄槌は、もはや標的を変えることなく、僕の頭部へ向かう。
僕の視界の端――燃え盛るランプの橙色の光が、空気を切り裂く巨大な鉄槌の残像に歪む。
かろうじて躱せた。しかし鼓膜を突き破るような轟音が僕の左側頭部を直撃した。鉄槌は僕の耳をわずかに掠めたに留まったが、その爆発的な衝撃波が僕の左耳を容赦なく襲う。
平衡感覚は一気に崩壊し、世界は鈍い振動と耳鳴りの中に沈む。僕の意識は、激しい衝撃と絶望的な敗北の予感によって、真っ白に塗りつぶされそうになった。
(だめだ…ここで倒れたら…殺されるッ!)
遠のく意識をなんとか引き戻す。だけど、片耳が聞こえない。
ブーアの鉄槌が耳を掠めた、その衝撃で聴覚がやられてしまったのだろう。しかし、僕にはそのことに意識を傾ける余裕はもはやない。ブーアが再び、血走った目で僕に向かって鉄槌を振り上げていたからだ。
身体に力が入らない。
僕の全身には、ザインのナイフやニードルがまるで不気味な飾りのように突き刺さったままだった。かなりの量の血が流れ出しているせいで、視界は定まらず、意識が朦朧としてくる。
ブーアの次の攻撃が来た。
意思に反し、体が動かない。
僕はもはや、申し訳程度に片腕を上げ、その腕を犠牲にして鉄槌の衝撃をわずかでも和らげることくらいしかできなかった。
死が目前に迫っていた。
その絶望的な瞬間、動く方の腕で魔剣を握ったグリンネル、血を流す体を滑り込ませ、僕と鉄槌の間に割り込んだ。
ズギャン!
金属が軋む凄まじい音が闘技場に響き渡り、魔剣はブーアの破壊的な鉄槌の衝撃を見事に受け止めていた。グリンネルの足元の土は衝撃で陥没し、彼の悲痛な呻きが、かろうじて聞こえた。
奴隷として生きてきた彼が、最後まで役立たずの僕を守ろうとしている。しかし、その判断は彼にとって致命的な動きとなった。
「僕の腕を…返せ」
シェルクは、グリンネルが鉄槌を受け止めた、その一瞬の隙を見逃さなかった。
彼は、先ほど炎で焼かれた左腕を庇いながらも、感情のない冷酷な動作で一気にグリンネルとの距離を詰める。
「グリンネル!」
キノルの悲痛な叫びが響いた。彼女はグリンネルを救おうと、咄嗟に最後の魔力を振り絞り、雷撃を放つ。
しかし、その魔法はシェルクに届くことなく、舞台の途中で力なく消え失せた。
――魔力切れ。
その事実に、彼女の顔には深い絶望の色が広がった。
片腕を炎で負傷したシェルク。その剣技の冷徹さは失われておらず、彼の細剣はまるで針の穴を通すように動く。
彼は迷いなく、グリンネルの右肩を除く三肢(両脚と左肩)の関節めがけて、連続的に、高速で細剣を突き立てた。その動きに、逡巡や、獲物に対する感情は微塵もなかった。《精緻》な剣技が、冷酷に仲間を壊していく。
「グッ……!」
悲痛な呻きとともに、グリンネルの両脚と左肩から鮮血が激しく迸った。
彼の身体を支える全ての要を破壊されたグリンネルは、ついに膝から崩れ落ちた。もはや、彼は戦場に立つことすら許されないほどの致命的な深手を負った。その場に倒れ伏した姿は、再起不能を意味していた。
シェルクは、地に崩れ落ちたグリンネルを一瞥することもなく、まるで「価値のない残骸」を後にするかのようだった。
彼は、僕の方には一切の関心を示さない。その冷徹な無関心さが、僕の胸に激しい憎悪となって突き刺さった。
そして彼はキノルへと向き直ると、一気に距離を詰める。
「キノル!!」
僕の悲痛な叫びが空しく響く中、シェルクは感情を完全に排除した非人間的な動作で、キノルの両肩と両脚を狙い、細剣を正確無比な連撃で突き貫いた。
「きゃあッ!」
その攻撃は精緻の極みであり、殺すためではなく、ただ機能を停止させるための冷たい技術だった。
キノルの紫色のローブはみるみるうちに血で染まり、彼女は呻きを漏らしながら、力なくその場に倒れ込んだ。
キノルは、痛みと屈辱的な敗北に顔を歪ませながら、その瞳に絶望の色を湛えていた。彼女は、もう二度とこの場で立ち上がれないことを、無惨にも悟ってしまったのだ。
倒れたキノルから視線を外したシェルクが、ゾッとするほど冷たい目をしながら、初めて僕のほうを向いた。その表情は、一切の感情を欠いた彫刻のようだった。
「君は僕が手を下すまでもないかな」
その言葉は、僕の存在そのものを否定する、冷酷な宣告だった。
そして、最後の絶望が、僕に襲いかかろうとしていた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/闘技場/舞台
狂戦士と化したブーアは、平衡感覚を失い、ふらついている僕に近づくと、全く冷静さを欠いた様子で、血走った目で鉄槌を振り上げた。
憎らしい、血走ったブーアの顔が、僕の目の前で狂気に歪んでいる。
橙色のランプの光が、彼の血管が怒張した額と、だらだらと垂れる唾液を不気味に照らし出し、その醜悪さを際立たせていた。
(この悪意の塊め!)
鉄槌が振り上げられる一瞬の永遠の中で、僕の脳裏には、これまでコイツとその取り巻きに苦労させられ続けた全ての記憶が、重く、黒い泥のように澱となって沈殿した。
ブーアは、人間が社会を構築する上でどうしても存在する「悪意」の、最も単純で野蛮な塊だった。こんな愚鈍なモノが、人智を超えた力を手に入れたのだ。ろくなことにならない、その代表例が、今、目の前にいる。
バイレスリーヴの冒険者ギルドやこの街で、奴の存在を意識しない者など一人もいない。本来なら、もっと楽しく、明るく、和気あいあいと出来るはずだった。全て、この頭の悪いクソ野郎のせいだ。
父さんを恨んでいる?父さんに逮捕されたことを恨んでいる?
だったら、まともであれば良かっただけだ!。父さんに直訴せず、息子の僕に当たって、何になる?
耳鳴りが響き、左側頭部の感覚が麻痺する中、僕の全身で、黒い憎悪の塊が激しく膨張した。
しかし、その塊はブーアを打つ力ではなく、この悪意の根源を打ち砕けない己の無力さに対するものだった。
僕は、ただただ絶望する。
グリンネルも、キノルも、倒れた。仲間たちは、僕のために戦ってくれた。だけど、僕は何もできなかった。
臆病者のまま、何も変わらなかった。
ブーアの巨大な鉄槌が、ランプの光を遮り、僕の頭上に巨大な影を落とす。影の中、彼の狂った瞳だけが不気味に光っていた。
「これはッ!攻撃を止めッ…」
司会のサファルの焦った声が、遠くから微かに聞こえた。
そして、その鉄槌は、僕の命と、僕が積み重ねてきた全てを、容赦なく叩き潰すために振り下ろされた。
ドスッ……
闘技場に、鈍い音が響き渡った。
そして、世界は静寂に包まれた。




