S-43 「すかしマザコンめ」
バイレスリーヴ/闘技場/アドホック陣営控え席【冒険者ギルド会長アドホック】
決勝戦の待機室は、墓場のような異様な静けさに包まれていた。
それは、シェルクの私に対する脅しを容認し、ヴュールとの戦闘に加わらなかった私の陣営に対する観客の非難の声が、あまりにも凄まじかったために、その余波が今、重苦しい空気となって控え室全体を押しつぶしているからだ。
大会開始前までは、この闘技場において、オリアンに対する風当たりが強かった。
しかし今や、完全に私たちは悪役の立場となってしまった。
それは、この国のことや私自身の評価などどうでもよいと考え、ただこの国を侵略できれば良いとするシェルク、ひいてはザーラムの判断に従わざるを得なかった結果だ。
(……悪い流れだ。しかし、大会の結果には影響しない)
私でなくても、そう確信できるだろう。なぜなら、ヴュールとの戦闘に参加しなかった、ブーア、ザイン、そしてシェルクは、体力、気力、魔力を全く消耗していないからだ。
対するオリアン陣営は、異形の魔物との死闘で満身創痍となっているキノルとグリンネル。そして、数合わせに過ぎない女商人のイル。
コイントスで個人戦かチーム戦かが決まるが、いずれの場合でも我が陣営は難なく勝てるだろう。さらに勝率をあげるならばチーム戦。
バージェスの親衛隊《黄金衆》の隊長で、ファルクレオに勝るとも劣らない超人的な実力を持つシェルクが、すべての相手と対峙できるからだ。
だが、念には念を入れる必要がある。ここでの敗北は、即ちこの国の終わりを意味するのだから。
私は、懐から小さな二つの包み紙を取り出した。ワキールから事前に渡されていたものだ。中には、違法薬物の成分をもとに精製された、強力な人体強化薬が入っている。
ワキールによれば、この薬を使えば、一時的に痛覚を遮断し、筋力を限界まで引き上げることができるという。
私の剣闘士、ブーアとザインの身体能力は、人の域を超えて大幅に強化されるだろう。つまり、《ヴィガー・ラクリス》は、オリアン陣営の息の根を確実に止めることができる代物だ。
こんな悪魔の薬がザーラムに存在すること自体、恐ろしい。この超強壮剤が、戦局を覆すほどの力を秘めている事実が、私には鉛のように重くのしかかった。
彼らにこの薬を使うのは、私の本意ではない。彼らは、私がこの国を支配するための単なる道具ではない。私の手足となって動いてくれた同志だ。彼らを、副作用の未知数な薬漬けにして危険に晒すことは、私の信条に反する。
だが、この国の未来のため、この勝利は絶対だ。私は、彼らの力を最大限に引き出すという名目で、彼らを利用しなければならない。
私は、包み紙を強く握りしめ、目を閉じた。その表情には、深い苦悩と、未来への覚悟が入り混じっていた。理想のために、仲間を犠牲にする。それが、私が選んだ修羅の道だった。
(……この国の未来のため、私は、悪魔となろう)
■ ■ ■
バイレスリーヴ/闘技場/観客席高層【視点:世界(観測者)】
闘技場の最上階。西の空が深紅と紫に染まり、黄昏の光が差し込む中、石造りの手すりに寄りかかったノエルの銀糸のような髪を、吹き抜ける潮風が静かに揺らしていた。
黄昏時の淡い光は、眼下の舞台に残された激戦の爪痕を陰鬱に照らし出している。彼は、先刻までの戦いの熱狂と、その後に訪れた混沌を、一人静かに、そして冷たく見つめている。
音もなく背後に近づいてきたローブの男、ルガルフに視線を合わせることもなく、ノエルは静かに口を開いた。
「てっきり乱入するかと思っていたよ、ルガルフ」
その声には、ルガルフの過去の行動を知り尽くした者だけが持つ、諦念と、ほんのわずかな皮肉が込められていた。商業者ギルドの若頭としての冷静さと、旧知の仲だからこその遠慮のなさ。
「……確かに、血は騒いだ。でも、そこまで考えなしじゃない」
ルガルフは、癇に障った様子で、少しぶっきらぼうに返答した。彼の声には、ノエルの見透かしたような言葉へのかすかな苛立ちが滲んでいる。
ライカンスロープの本能と、理性の狭間で揺れた自分への苛立ちだった。
「状況が変わった。かぁさ……いや、ボスの方針は?」
ノエルは淡々と語るが、その口元が微かに動揺を隠せない。
ボスのことを「母さん」と呼びそうになり、寸前で押しとどめたのだ。その一瞬の言い淀みに、ノエルのボスへの複雑な感情が垣間見えた。
「『勝ったほうに、従う。大会には、干渉しない』とのことだ」
ルガルフは、信じられないとでも言うように、言葉を強調して告げた。その瞳は、彼の主の決断に、深い困惑を宿している。
「俺はボスがそう言うことは、初めから分かってたけど」
ノエルは、ルガルフの困惑を眺め、冷たい笑みを浮かべて見返した。すべてを計算していたかのような、参謀らしい表情だった。
「はっ、すかしマザコン、め」
ルガルフは、ノエルの皮肉に、精一杯の侮蔑を込めて応えた。
しかし、その言葉の裏にあるのは、互いの立場の違いを超えた、二人の間に存在する深い絆と、旧知の仲でしか許されない親密な遠慮のなさの表れだった。
ノエルは、その言葉に反論することなく、ただ微かに笑みを深めた。
二人は、黄昏の中、それぞれの想いを胸に、眼下の闘技場を見つめ続けた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/闘技場/外縁
闘技場の外縁、喧騒から切り離された静かな場所に、ザーラム執政官バージェスの豪華な馬車が停められている。
西の空は茜色に染まり始め、長く伸びた影が周囲を覆う。馬車の金色の装飾が、沈みゆく太陽の最後の光を反射し、毒々しいほど華美な輝きを放っていた。
その周囲には、親衛隊《黄金衆》が厳重な警備を敷いて主人の乗る馬車の防衛を担っている。
その時、闘技場の裏門の方向から、突然、群集の怒号と金切り声が響き渡った。
「衛士はどこだ!」
「あのヴュールがまた来るかもしれないだろう!こんな警備で大丈夫なのか!?」
市民の悲鳴と騒乱の音が混じり合い、一瞬にして喧騒が馬車周辺にまで及ぶ。
「民衆暴動の兆しか……面倒だが、半数は鎮圧に向かえ。この馬車に何らかの被害が及ぶ前に」
指揮官の指示に応じた親衛隊らは、厄介ごとをバージェスの馬車周辺で発生させないよう、剣を抜きながら急いで音の方向へと向かった。
警戒が弱まった、その警備の一瞬の隙をつくように、一人の物乞い風の男が、馬車に近づいていく。
男は、辺りを警戒する親衛隊の視線を避けながら、その汚れた手から、馬車の窓からわずかに伸びた白く細い手に、一枚の紙切れを渡す。それを受け取った手は、瞬時に馬車の中へと消えていった。
「なーに、それ?」
馬車の中では、ガウンを羽織った情婦が、もう一人の裸婦に尋ねる。
尋ねられた裸婦は、目を引く美しい銀色の髪をもち、右目の下には泣き黒子、そして灰色がかった青い瞳をしていた。
彼女は受け取った紙片を無表情に見つめていた。その瞳は、まるで感情を持たない人形のように、驚くほど冷たい光を湛えていた。
「さあ、何でしょう」
女は、バージェスと戯れていた時の甘い声とはまるで別人のように、冷ややかな声で答えた。彼女は紙片を丸めて、そのまま手のひらの中に収める。
次に手を開いたとき、丸めたはずの紙片は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。鮮やかな手品だ。
「えっ!すごい!どうやったの!」
情婦は、まるで子供のように目を輝かせて尋ねる。彼女は、目の前で起こった不可思議な現象に、驚きと興奮を隠せない。
「教えてあげない」
ウィスカは、再び愛らしい表情に戻り、戯けるように答える。
その表情の変化は、まるで仮面を付け替えるかのように自然だった。冷たい殺し屋から、無邪気な愛人へ。その変貌は、幼い頃から訓練された技術の証だった。
「えーっ、ずるーい!」
馬車の中から、情婦たちの他愛もない笑い声が漏れ聞こえる。
しかし、その笑い声の裏では、何事もなかったかのように振る舞う女たちを乗せた馬車を、近くの木陰から、ワキールが鋭い眼差しで見つめていた。
馬車の主であるバージェスが観戦している闘技場の中からは、観客たちの大きな歓声が聞こえ始めていた。
それは、ヴュールとの死闘で中断されていた決闘大会の再開、あるいは決勝戦の開始を告げるものだろう。




