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S-41 「『ひねくれ者』のニーネッドによろしくな」

バイレスリーヴ/闘技場/オリアン陣営控え席【視点:臆病者オリアン】


 頭の中で意識が途切れて、覚醒したような感覚を覚えた。


「イルっ!……さん?」


 僕は無意識に彼女の名前を叫んでいた。だが、声を上げた途中から、自分がなぜ叫んでいるのか、その対象が誰なのか、皆目見当がつかなくなった。


 僕の視線の先には、闘技場に空いた巨大な大穴があるだけで、イルの姿はなかったからだ。


「オリアン!ごめん遅くなって!」


 僕の背後から声がした。舞台に向かって茫然と立ち尽くしていた僕は、急いで振り返る。


 イルは控え席の奥の通路の前に立っていた。その手には、僕が依頼した通り、《魔力の雫》と《生命の丸薬》らしきものがしっかりと握られている。


 僕は一瞬何が起きたのか判然とせず、混乱した頭で周囲を見回した。


 闘技場には、グリンネルたち剣闘士が、膝を突き、あるいは地に蹲り、散乱している。彼らの姿は、激しい戦いの証だった。


「誰か!手を貸してほしい!」


 衛士長官のディナリエルさんが声を張り上げ、必死の形相で負傷者の救護にあたっている。闘技場の至る所が抉れ、深い穴が空き、煤けており、舞台の一部は水に濡れて泥濘んでいた。まるで、神々の怒りが通り過ぎた後のような凄惨な光景だった。


 その光景を見た瞬間、僕の頭の中に鉄の杭を打ち込まれたような衝撃が走った。


「かっ……怪物……ヴュールは!?」


 突然、さっきまでこの場で暴れまわっていた外海の異形のことを思い出す。


 なぜ、その記憶が一時的に意識から断絶していたのか、僕には理解できなかった。まるで、時間が歪み、一部の現実が切り取られたかのような、朧気で、ねじ曲がった感覚。


「海へ逃げ帰っていっただろう?」


 その言葉に、キノルを抱えて控え席に戻ってきたグリンネルが大穴へと視線を送り、困惑した様子で答えた。


「そうでした。海に、帰っていった」


 そうだ。僕も彼がそう言った時にようやく思い出した。

 あの暴威、ヴュールは、彼らの必死の抵抗を受け、まるで興が削がれたかのように、何事もなかったかのように海に逃げ去ったのだった。


 さっきから度々感じる、頭の奥底を何らかの力に塗り替えられたような、不気味で空虚な感覚。


 記憶の糸を強引に手繰り寄せてみても、その終焉の描写だけが、あまりにもあの存在の「格」にそぐわない。まるで、誰もいない空間に、ただ『解決した』という事実だけが強引に書き込まれたような、悪夢的な不自然さだ。


 しかし、闘技場に残された深刻な爪痕や、疲弊し負傷した剣闘士たちの姿を見れば、それが現実であったことは明白。


 いや、現実ではないか。何を不自然に感じていたんだ。僕の思考は間違っていた。


 前兆もなく突然現れたあの暴威は、ここに偶然集っていた英雄たちによって撃退され、街にさらなる惨禍をもたらすことなく終わったのだ。


 もし彼らほどの常人を超越した実力者が集まっていなければ、このバイレスリーヴは一夜にして廃墟と化していただろう。彼らの奮戦が、この国を滅亡の危機から救ったのだ。


 僕は、この再構築された現実を強引に受け入れ、いま戻ってきたばかりのイルに対して、闘技場の尋常ならざる現状を、揺るぎない確信とともに説明した。


 現状を認識したイルは、消耗しきったキノルに駆け寄り、持っていた《魔力の雫》と《生命の丸薬》を彼女に手渡す。


 それを受け取ったキノルは、薬をすぐに口にせず、ルーガット陣営の控え席の方に目をやった。


 そこには、衛士の救護班が忙しそうに動き回っており、肩を貫かれて負傷し、治療を受けたルーガットさん、腹部と肩に大きな傷を負い、全身も氷のトゲの破片で負傷したファルクレオ、同じく氷のトゲの破片で脚を負傷し、体力も魔力を使い果たしたダイアナさん、2人ほどの怪我は負っていないものの、ボロボロのローブを纏い、ヴュールの水流により全身を強く殴打した影響で疲弊したファイネの姿があった。


「オリアン、これはルーガットさんにこそ与えるべき」


 キノルは、ルーガット陣営と比較して大きな怪我を負っていない自分たちの状況と、戦闘中に高価な《魔力ハイポーション》を惜しみなく提供してくれた彼らにこそ、この貴重な薬が必要だと判断したのだ。


 その判断は、もはや一介の魔術師の少女のものではなかった。


 彼女の提案を受け、僕たちは敬意をもって、ルーガット陣営の控え席へと赴いた。そして、僕は初めて、本当の意味で「仲間」というものを理解し始めていた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/闘技場/ルーガット陣営控え席


「あの……ルーガットさん。これを……彼女からです。どうか、お使いください」


 ディナリエルさんによる応急処置と治療を一旦終え、椅子に腰掛け安静にしているルーガットにさん、キノルから託された《魔力の雫》と《生命の丸薬》を差し出した。


 ルーガットさんは、差し出された貴重なアイテムに視線を落とした。その瞬間、僕の隣にいたグリンネルは、ルーガットさんへの挨拶も後回しにして、すぐさまファルクレオの元へ駆け寄った。


「師匠!傷は……!」


 ファルクレオは、ヴュールの口先による致命的な一撃を腹部に受け、その傷口からは多くの血が流れ出ていた。ディナリエルさんと衛士の救護班が懸命に処置を行っている。


 ディナリエルさんは、ファルクレオの傷口を《緑沃魔法》による縫合術をかけながら、額の汗を拭った。


「グリンネル、心配するな。あの傷は深いが、彼の常識離れの強靭な肉体が内臓への到達を防いでいる。命に別状はない。数日、安静にしていれば、必ず元通りになるさ」


 ファルクレオは、痛みに顔を歪ませながらも、グリンネルに力なく微笑んだ。


「……お前は…平気なのか」


「師匠に守っていただきましたから……僕の……力不足です」


 グリンネルは、目に涙を浮かべながら、師の大きな手を握りしめた。その姿は、奴隷剣闘士のそれではなく、ただの若き弟子の姿だった。無口な師匠が、言葉少なに弟子を案じている。


「なにを……俺は……お前の成長に驚いているというのに……」


 ファルクレオは、その様子を見て、グリンネルの手を握り返した。師弟の絆が、言葉以上に雄弁に語られていた。


 グリンネルの師への気遣いを見届けたルーガットさんは、僕たちの方へ視線を戻した。


 彼はその貴重なアイテムに視線を落とし、自陣の剣闘士たちへと目を移し、最後に僕たちを見渡した。


 この時の僕の頭の中に、決闘大会クレイヴァートの勝ち負けについての判断は完全に欠落していた。

 ただ、目の前の、この国のために命を削って戦ってくれた仲間の中で、特に疲弊した者を癒したいという一途な思いしかなかった。


「エドワルドの倅……いや、オリアンよ」


 その声は、重々しくも温かかった。これまで僕を「エドワルドの倅」としか呼ばなかったルーガットさんが、初めて僕の名前を口にした。その一言が、僕の胸に深い重みをもって響いた。


「儂は、正直お主を見くびっていたようだ。お前の可能性は、儂の想像を超えたものだった」


「僕なんか……」


 僕は自分のことを彼が語ることなど想像できなかったため、ただ謙遜するしかない。

 ルーガットさんは僕をじっと見据えた。彼の瞳は、僕が経験してきた絶望、そしてそこから這い上がってきた軌跡のすべてを見透かしているかのようだ。


「良き仲間を得て、絶望を経験し、この舞台に舞い戻った。どんな理由があろうと、それがどのようなものであろうと、それは、今後のお前を形づくり、輝きを増していくだろう。必ずな」


 その言葉は、まるで金言のように、僕の心を深く揺さぶった。彼の言葉には、父を知る者としての慈愛と、将軍としての厳格さが混じり合っていた。そして、「人を残す」という彼の哲学が、今まさに実践されようとしていた。


 ルーガットさんは、ファルクレオに寄り添っているグリンネルに視線を移した。


「ボウズ……いや、グリンネル。久方ぶりだな」


「ルーガットさんも。ご挨拶が出来ていなくてすみません。それに、こんな形で再会するとは思いませんでした。もちろん師匠とも」


 グリンネルは、ルーガットさんに向き直り、敬意をもって答える。


「挨拶などよい。それより、儂の目に狂いはなかった事が喜ばしい。強くなったな。そして、お前はまだまだ強くなるだろう」


 グリンネルは深々と頭を下げた。二人の間に流れる、静かで深い信頼が、言葉以上に雄弁に語られていた。かつて拾い上げた原石が、今、眩いばかりの輝きを放っている。


 ルーガットさんは、次にキノルに向けられた。


「そして、キノルとやら。噂は本当だったな。将来の大魔術師よ。『ひねくれ者』のニーネッドによろしくな」


 キノルは無表情に、だがその師への的確な評価に妙に納得しつつも、なぜルーガットさんがそのように彼を評すのか分からず、ただ静かに頭を下げた。


 そして、最後にルーガットさんはイルを見据えた。


「お前は……何者か。今まで見たことがない。不思議な雰囲気を漂わせておる。何者にもならず、何者にもなれる。儂に測れる者ではないことは確かだが……」


「そんなこと……あるかもね!」


 イルは少し照れながらも、誇らしげに胸を張った。その姿は、いつものように飄々としていた。


 ルーガットさんは、僕たちと、ファルクレオたち歴戦の英雄たちを交互に見渡した。


 その表情には、自らの立場と、目の前の絶望的な現実の間で揺れる葛藤が滲んでいた。しかし、その迷いは一瞬で消え去り、何か大きな決断を下したかのような、静かな覚悟が宿る。


「オリアン、これはお前たちが使うものだ」


 ルーガットさんは、僕が差し出したキノルのアイテムを一瞥した。


「良いのですか?」


 僕は戸惑いながらそれを受け取る。彼らの状況を考えれば、受け取って良いはずがなかった。


「この後の戦いに必要じゃろう」


 僕には、ルーガットさんが話していることが分からなかった。戦いは、ヴュールが海に逃げ帰ったことで終わったはずだ。


 ルーガットさんはダイアナさんとファルクレオさんに視線を送る。


 ヴュールの水流により全身を強く殴打し、氷のトゲの破片を脚に受け、魔力も体力も消耗したダイアナさんは、如何にも無念という表情を湛えている。


 全身傷だらけのファルクレオは目を閉じて微かに頷いた。ローブの下半身がズタズタになったファイネは、その仮面で表情は読み取れないものの、椅子の上でじっとして動かない。


「見ての通りだ。儂の陣営に次の試合を戦える者は、もはやおらん」


 ルーガットさんは、再び僕を見据えた。彼の瞳は、僕の父を知る者の、そしてこの国の未来を案じる一人の男としての、幾重にも重なった感情を宿していた。その口から紡がれた言葉は、静かでありながら、岩をも砕くほどの重みがあった。


「若き、お前たちに道を譲ろう」


 彼は、控え席の奥で不動を決め込んでいるアドホック陣営を一瞥し、そして再び僕に目を戻した。


「その代わりに、絶対に負けるでないぞ。この街の、そしてこの国の未来を、その手で掴み取ってこい」


 彼は、静かにそう告げると、迎えに来た衛士に支えられて立ち上がり、診療所へと案内される。


「そうじゃ、これより、お前が不当な扱いを受けないよう、儂が手を回しておこう。安心して次の試合に臨むがよい」


 ルーガットさんの言葉に、僕は驚きを隠せない。彼は、僕が収監されないよう、手を尽くしてくれるというのだ。


 僕は、深く頭を下げ、ルーガットさんが衛士に支えられながら、静かに控え席を立ち去っていくのを見送った。彼の決断は、僕たちの未来への希望を、確かなものとしたのだ。


 そして、「人を残す」という彼の哲学が、今、この瞬間に花開こうとしていた。

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