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S-40 「お、おいっ!商人の女っ!」

バイレスリーヴ/闘技場/舞台【視点:世界(観測者)】


 グリンネルらの即席ながらも見事な連係により、ヴュールに大きなダメージを与えることに成功していた。


 ヴュールの体には、確かに傷が増えていた。雷に焦げた跡、斧で砕かれた鱗、そして炎に溶かされた表皮。その肉体からは青の血が滲み出し、闘技場の大地を汚す。

 さらに、その武器の三叉矛さんさほこはダイアナの魔法により破壊されていた。


「いける!このまま押し切るぞ!」


 カースランの確信に満ちた叫びが響いた。彼らの顔に、観客席のわずかに残った人々の顔に、勝利の予感という名の輝かしい希望が灯る。


 しかし、その希望は、次の瞬間、粉々に砕かれた。


「ギシャァァアアアア!!!」


 ヴュールは、これまでの苦悶とは全く異なる、戦慄すべき、怒りの咆哮を上げた。その声は、闘技場全体を覆うように響き渡り、空気を振動させ、人々の耳を突き刺した。


 ズオ"ォン!!!


 ヴュールの全身から青い魔力が湧き上がるように溢れ出す。剣闘士たちがその様子に怯んだ隙に、ヴュールは全身を複雑に、異様にうねらせ、ディナリエルの緑沃魔法の蔦から脱出する。

 そして、地を蛇の様に這ってすばやく移動し、破壊された三叉矛に装飾されていた青色の宝石を、その鋼鉄の口先から飲み込んだ。


 その直後、ヴュールの青色の魔力は禍々しい青紫に変わり、その体の傷も見る見るうちに癒えていく。青紫のオーラが、絶対的な力の顕現を示すかのように、場内を圧迫した。


「なんてことだ……」


 ファルクレオは呆然と呟いた。その様子を目の当たりにして、これまで積み上げてきた全ての努力が、一瞬で崩壊するような感覚に襲われる。


 孤独に武を極めてきた彼が、初めて「人の限界」を感じた瞬間だった。


「魔力が数段階上がった……私の壁で防ぐことができる領域を超えてしまったわね……」


 ダイアナの口から諦めの声が漏れた。その光景を観ていたその場の誰もが、一瞬見えかけた希望から、絶望のどん底に突き落とされた瞬間だった。


 もはや、剣闘士たちの体力・魔力は限界であり、今から目の前の人知を超えた暴威に対抗することは、無謀だった。


「こいつが深海神だってのなら……そう信じざるを得ないな」


 《帝国最強の戦士》の異名を持つカースランですら、ただ苦笑するしかなかった。


 ヴュールは凄まじい速度で地を這いながら後方へと移動し、剣闘士たち全員が標的だと示すかのように、不気味な叫び声をあげ、青紫の光りを帯び始める。短い詠唱時間にもかかわらず、あまりにも大規模な魔力の気配。


 ダイアナは前面に出て、剣闘士全員を守るような巨大な魔法障壁を展開。そしてその障壁を維持しながら、さらに複数の障壁を重ねて展開した。


 その直後、ヴュールはこれまでの数倍の魔力が込められた大規模な水氷魔法による激流を放った。


 スドォォォォォオン!!


 一枚目の魔法障壁は、強烈な速度の激流を受けて直ちに崩壊し、二枚目、三枚目と、全ての魔法障壁が紙のように破壊され、ダイアナ達に猛烈な水流が襲い掛かる。


 剣闘士たちのほか、オリアンやルーガットまで、その水流の効果は及び、皆が流されて壁に叩きつけられた。


「ギシュシュ!」


 ヴュールはどこか満足そうに不気味な声をあげ、その細長い体を鎌首をもたげるように縮ませると、水流を受けて最も早く立ち上がったファルクレオに、その鋼鉄の口先から飛びついた。


 カースランは、その異様な速度に反応し、とっさにファルクレオを庇おうと動いた。しかし、ヴュールの攻撃で地面が泥濘んだことで、足が滑り移動が間に合わない。


 ドシュッ!


 空気が破裂するような音が響いた。ファルクレオの愛用する巨大な剣は、音速を超えた一撃によって弾き飛ばされ、その身体は、その鋼鉄の口先により、ファルクレオの装備をバターのように容易く貫き、その強靭な肉体を深々と抉った。


「ぐはぁっ!!」


「師匠!!」


 ファルクレオの口から、血と絶叫が混じった短い悲鳴が漏れる。彼は、巨大な戦意を宿していたその眼差しを大きく見開き、膝から崩れ落ちた。


 グリンネルの悲痛な叫びが闘技場に響いた。師匠への想い、それがすべて無に帰した瞬間だった。


 絶望。


 瞬く間に、希望は完全に打ち砕かれた。


 ダイアナの魔法障壁は破られ、英雄冒険者のファルクレオが、一撃で戦闘不能に陥った。その光景は、戦場に残された五人の戦士たちの心に、冷たい氷塊を叩きつけるようだった。


 ヴュールは、その頭をファルクレオから戻すと、口の周りに付着した血を舐めとり、ゆっくりとグリンネルへと向き直る。その青い眼光には、底知れぬ嘲笑が浮かんでいるように見えた。


 残された戦士たちの間に、再び冷たい静寂が訪れた。


 彼らの顔には、絶望的な敗北の色が、深く、濃く刻み込まれていた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ闘技場/舞台


「馬鹿げた強さだ。これほど腕に立つ者たちが集まっても、あんな訳の分からん魔物一匹すら倒せんのか。人間とは、かくも弱い生き物よ」


 カースランは、気力のみでヴュールと対峙しながら、怒りと絶望に顔を歪ませた。その声は、己の敗北だけでなく、人という種の限界を認める深い諦念に満ちていた。


 その時、彼の隣で戦闘態勢を維持していたジーナが、信じられないものを見たかのように叫んだ。


「お、おいっ!商人の女っ!」


 その場の誰もが、ヴュールさえもがわずかに動きを止める中、ジーナの視線の先を凝視する。そこには、ヴュールが突き破った闘技場の破壊された壁から、青髪の少女の姿があった。


 彼女は、葡萄酒の革袋を肩にかけたままで、青紫のオーラを放つヴュールを真っ直ぐ見据えていた。その酔ったような足取りで、彼女はゆっくりと舞台へと歩み寄ろうとしていた。


 彼女の姿は、血と土煙に塗れた絶望的な戦場において、あまりにも場違いな狂気をはらんでいた。


「イル!そいつに近づいちゃだめだ!!」


 オリアンは、激流に打たれて負傷した体で、必死に手を伸ばす。


 それは、捨て駒であり、荷物を取りに行かせたはずの彼女が、自ら死地に向かっている様に見え、初めて心から発した制止の叫びだった。


 しかし、イルは振り返らない。彼女の瞳は、まるで深く静かな湖のように、ヴュールという底なしの深淵を見つめていた。


 その表情には、いつもの飄々とした笑みではなく、全てを呑み込むような、異様な静けさが浮かんでいた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ闘技場/舞台【視点:臆病者オリアン】


 僕の必死の制止の叫びは、イルには届かなかった。彼女は、酔ったような足取りで、青紫のオーラを放つヴュールへと向かっていく。


 その瞬間、ヴュールから、異様な声が上がった。


「ギシャァァア?!ギシャシャ!」


 その声は、これまで聞いたどの咆哮とも違う、微かに高音の声だった。そして、イルを認知したヴュールの様子は明らかに一変した。


 ヴュールは、グリンネルたちへの興味を一瞬で失ったかのように、先ほどまでの殺意と敵意を消し去り、その細長い体で、まるで子供が親に駆け寄るかのように、異様な勢いでイルへと向かっていく。


「ギシシシシ……」


 ヴュールは、イルの手を伸ばせば触れることができる距離まで近づくと、ぴたりと動きを止めた。そして、そのおぞましい頭部をゆっくりと低く下げ、イルの下から見上げるような姿勢をとったのだ。


 その光景を目撃した瞬間、僕の脳内で何かがプツリと切れた。


(な……なんだ……?この状況は、一体……)


 僕の常識、論理、戦闘の定石。全てが崩壊した。目の前の現象を理解する知識が、僕の頭には存在しなかった。


 あれは、人類の脅威たる外海の魔物ヴュール。その絶対的な暴威が、なぜ、彼女に、このような振る舞いを?


 イルからは、その異形のヴュールに畏怖する様子は欠片も感じられない。ただ、若干不機嫌そうな顔で、終始無言でヴュールを見つめる。


 その瞳の奥には、僕が知るイルとは全く異なる、底知れない何かが潜んでいるように見えた。


 ヴュールはイルを、イルはヴュールを、ただ見つめ合う。


 その数秒間の静寂は、永遠にも等しい時間に感じられた。


 僕の思考は完全に停止した。目の前の出来事は、僕の理解の範疇を遥かに超えていた。 そして、その暫くの後、妖しい紫色の光が、闘技場全体を覆うように、広がっていくのが見えた。


 その光は、絶望に満ちた闘技場を、静かに包み込んでいった。

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