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S-4 物語の最初の一行

バイレスリーヴ/裏通り/書店「書店の書庫」【視点:幽霊王子ルト】


 静謐な書店の空気が、軋む音を立てて破られた。


「おいおい、こんなカビ臭ぇ店のどこがいいんだか」


 扉を蹴破るようにして、巨漢が店内へ踏み込んできた。その後ろには、薄汚れた革鎧を着込んだチンピラたちが、下卑た笑みを浮かべて続く。


「…ブーアか」


 店主が吐き捨てるように呟いた。


 見るからに分かる。こいつから漂う暴力と安っぽい自尊心。身につけている武具だけは一級品だが、使い込まれた形跡よりも、他者を威圧するための装飾が目立つ。典型的な「腕っぷしだけが取り柄」。徒党を組んで弱者を甚振ることでしか己の価値を確認できない、ゴロツキだ。


「おぉ、いたいたァ! オリアンのチビリ野郎!」


 ブーアの充血した目が、書棚の隅に縮こまったオリアンを射抜く。


 獲物を見つけた獣の歓喜。いや、それ以上に粘着質な、弱者をいたぶる嗜虐の喜びがそこにあった。


「騒々しいのはお断りだが……」


 店主が静かに立ち上がる。だが、ブーアは鼻を鳴らし、あからさまに侮蔑の視線を向けた。


「ジジイは黙ってろ。俺たちは、このクソ野郎に用があるんだよ」


 ブーアはズカズカと店内を歩き、オリアンの元へと近づいていく。

 その一歩ごとに、オリアンの顔色から血の気が失せていく。


「ひ、ひぃ……」


 情けない悲鳴。


 彼は恐怖で足が竦み、逃げることさえ忘れてしまっているようだった。


 「決闘大会クレイヴァートに出るだぁ!? 笑わせんな! テメェみたいな根暗なウジ虫が、元首になれるわけねぇだろうが!」


 ドガッ。


 ブーアは躊躇なくオリアンの腹を蹴り上げた。


 オリアンが「ぐえっ」と蛙が潰れたような声を上げ、本棚に背中を打ち付ける。


「あーあ、大事な本が汚れちまったじゃねぇか。全部テメェのせいだぞ? えぇ?」


 ブーアはさらにオリアンの胸倉を掴み、軽々と持ち上げた。

 巨体と痩躯。その圧倒的な体格差は、捕食者と被食者の構図そのものだ。


「ここはお前たちが来るような場所ではない!」

 

 店主が声を荒らげ、カウンターから出る。

 だが、チンピラの一人が素早く立ち塞がり、ニヤリと笑って短剣を抜いた。


「ジジイは引っ込んでろ! 怪我したくなかったらなァ!」


 誰も助けに来ない。誰も逆らえない。

 そんな絶望的な空気が店内を支配する中、僕の器――イルが動いた。

 彼女は音もなくブーアの背後に近づき、その袖を引いた。


「彼を、離して」


 あまりに静かなその声は氷の様に冷たい。


「あァ!? なんだぁ! っと……上玉じゃねぇか! お前も一緒に躾けてやろうかァ!?」


 ブーアがねっとりとした視線でイルを値踏みする。

 その下卑た眼差しに、僕の中で強烈な不快感が沸き上がった。


「離せ」


 イルの口から発せられたのは、言葉というより「命令」に近かった。

 彼女の黄金の瞳が、暗く、冷たく光る。


「て、テメェ!? 俺様に指図するのか!!」


 ブーアの顔が引きつる。本能が、目の前の少女の異質さを感じ取ったのだろうか。


「今なら…許してあげるから」


 イルが呟く。


『イル、交渉など無駄です。殺しましょう』


 同じ陰キャであるオリアンがあそこまで惨めに虐げられる姿を見て、自分の中の古傷が疼いたのかもしれない。

 不思議と、怒りが抑えられなかった。僕はイルの意識を奥底へと押し込め、その身体を掌握した。


 彼女の意思を無視し、その右腕に力を入れる。


 ビクンッ。


 イルの腕が、不自然な痙攣と共に跳ね上がった。僕が掲げさせたその掌に、彼女の魔力を無理やり引き出した。


 ズズズ……。


 店内の空気が、目に見えて変質していく。光が歪み、重力が狂うような圧迫感。


「ひ、ひぃ……! な、なんだコリャ!?」


 チンピラたちが、本能的な恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。


『消え、失せろ』


 生を狩る腐敗の禁術。《魔疫魔法、ロブザール(腐敗弾)》を紡ごうとした。しかし⋯


「イ、イルさん!!」


 オリアンの絶叫が響いた。


『っ!? ちょっと! 勝手に私の身体を使わないで!』


 イルの意識が猛烈に抵抗する。


 魂がぶつかり合い、身体が激しく震える。掌の魔力が暴発寸前で体内へと逆流していく。彼女は苦悶に顔を歪め、喉の奥でくぐもった呻き声を漏らした。


 その時。


 ドガァァァン!!


 書店の扉が吹き飛ぶほどの勢いで開き、閃光のような青年が飛び込んできた。


「店で暴れるなッ!!」


 グリンネルだ。


 彼は疾風の如く間合いを詰めると、空中で華麗に一回転し、遠心力を乗せた踵落としを、油断しきっていたブーアの脳天に叩き込んだ。


 バキィッ!!


「ぐぼァッ!?」


 鈍い音と共に、ブーアの巨体が床にめり込む。

 古い床板が悲鳴を上げて砕け散り、長年積もった埃が舞い上がった。


「グ、グリンネル!」


 キノルが叫ぶ。


 明るい髪を揺らし、グリンネルは倒れ伏したブーアを一瞥もせず、残りのチンピラたちを睨みつけた。


「さぁ、次は誰だ? 俺が相手をしてやる」


 その声には、普段の穏やかさはない。ただ、静かで、焼き尽くすような正義の怒りが宿っていた。


「ひッ……!? グ、グリンネルだ! 逃げろォォッ!」


 チンピラたちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。


 ブーアも、白目を剥きながらよろめき立ち上がり、悔しそうに僕たちを睨みつける。


「クソが! 油断しただけだぞ!! 覚えてやがれ!」


 負け犬の典型のような捨て台詞を吐いて、ブーアは足を引きずりながら店を出ていった。


 静寂が戻る。


「……大丈夫か? オリアン」


 グリンネルが、腰を抜かしている彼に手を差し伸べた。

 その手は大きく、温かそうだった。


「す……すごい……あのブーアを……誰も手を出せなかったブーアを一撃で……」


 オリアンは、目の前の光景が信じられないといった様子で震えている。

 暴力への恐怖と、それをねじ伏せる力への憧憬。複雑な色がその瞳に揺れていた。


「本は……本は無事!?」


 キノルが慌てて店内を見回す。幸い、数冊が床に落ちただけで、大きな被害はなかった。


「よかった……本が無事で……」


 キノルは心底安堵したようにため息をつき、本を拾い始めた。


(オリアンの身より本の無事を案じる……か。彼女も、相当変わり者だな)


 そんな彼女に感化されてか、オリアンも、イルも、グリンネルも、無言で散乱した本を拾い集め始めた。

 誰も言葉を発しない。けれど、その静かな作業の中で、彼らの間に不思議な連帯感が生まれていくのを僕は感じていた。


「君たち、少しよろしいか」


 店主の威厳ある声に、場が静まる。その瞳は、まるで難解な書物を読み解くかのように、一人ひとりの顔をじっと見つめている。


「君たちを見ていて、思い出したことがある」


 店主はそう前置きすると、静かに語り始めた。


「本を愛する者には、二種類の人間がいる。知識を私物化する者と、知識を守り伝える者だ。……君たちは、間違いなく後者だ」


 店主は深く息を吐き、僕たちの顔を見渡す。

 その口調には、ただの昔話ではない、歴史の重みが込められていた。


「かつて、知識欲に溺れ、手段を選ばず古書を奪い続けた男がいた。彼は世界中の叡智を手に入れたが、その心は虚無に蝕まれ、孤独な破滅を迎えた。……人々は彼を、冥府の賢者マルヴと呼んだ」


「……冥府の…マルヴ」


 キノルが静かに復唱した。


「一方で、本を心から愛し、そこに宿る人々の記憶ごと未来へ繋ごうとした者がいた。彼は本を『人々の心を結ぶ道しるべ』と説き、多くの民に慕われた。……その名を、《オリエンス》という」


「……賢者、オリエンス」


 オリアンが噛み締めるように言った。その瞳が潤んでいる。

 本を愛する者にとって、オリエンスは憧れの象徴なのだろうか。

 キノルも深く頷き、胸に手を当てている。


 二人のオタクが感極まっている横で、イルとグリンネルは「へぇー」と素直に感心している。僕にとっては、どちらも等しくどうでもいい話だ。


「君たちを見込んで、頼みたいことがある」


 店主の言葉に、オリアンとキノルは居住まいを正した。賢者オリエンスの資質があると言われて、断れるはずがない。


 イルとグリンネルも、興味深そうに顔を見合わせた。


「この街の近くにある《黒き森》の奥深くに、隠されたアトリエがある。そこにある木箱の中から、私が昔つけていた日記を取りに行ってくれないか」


「『師匠』。良い話をした後に、執筆が忙しいからって、どさくさに紛れてお使いを頼まないで」


 キノルの鋭いツッコミに、師匠と呼ばれた店主は悪びれもせず朗らかに笑う。


「はっはっは。キノルには通用せんか。勿論、謝礼は弾むよ」


 黒き森。そこは凶暴な獣や、野盗が住み着く場所。

 僕とイルはこの街に来るまでに通過しているから知っている。あそこは、戦い方を知らないオリアンのような人間がピクニック気分で行ける場所ではない。この店主は正気か?


『イル。断りましょう。時間の無駄です』


 僕が止める間もなく、イルは目を輝かせた。


「森の隠されたアトリエ……なんだか面白そう!」


『イル! 本気で言ってるんですか!?』


「皆で行こう! ね?」


 イルは僕の警告を無視し、満面の笑みで同意した。彼女の冒険への渇望は、僕の合理的判断を軽々と飛び越えていく。


「そうだね、盗人常習犯も捕まえ終えて、丁度仕事がほしかったところさ」


 グリンネルが、爽やかに力強く頷いた。


「師匠の策略にまんまとはまる……」


 キノルも文句を言いつつ、満更でもなさそうだ。


「ぼ、僕は……」


 明らかに冒険不向きなオリアンだけが、乗るに乗れずにまごまごしている。


「大丈夫。俺が、俺達がついているから」


 グリンネルが眩しい笑顔で肩を叩く。オリアンは助けを求めるかのように、おずおずと顔を上げ――ふと、僕たちの方を見た。


 イルは無邪気に微笑み返している。

 だが、その瞬間。僕は奇妙な「歪み」を感じ取った。


(……ん?)


 オリアンの視線が、イルの双眸に吸い込まれていく。

 その刹那、恐怖で震えていた彼の身体から、小刻みな震えがピタリと止まった。


 不気味な静寂。


 彼の瞳の奥から、人間らしい感情の揺らぎが消え、代わりに底知れぬ「なぎ」が満ちていく。

 それは決意と呼ぶにはあまりに冷たく、狂気と呼ぶにはあまりに静かだった。


 僕は思わず、イルの瞳を確認した。

 そこには、何の違和感もない、いつもの彼女の瞳があるだけ。


(彼女じゃ…ない?)


「……僕も、行きます」


 オリアンは静かに、けれど強く拳を握りしめた。

 その声には、先ほどまでの怯えなど微塵も残っていない。まるで、何かに憑き物が落ちたかのように。


(……何だ、今のは)


 書店内で《幻妖魔法》が発動した形跡もない。

 僕は不可解な現象に眉をひそめた。


 イル本人も、何が起こったのか、全く気づいていない様子で、「やったー!」と無邪気に喜んでいる。

 偶然か? それとも、この男の精神構造がもともと歪んでいるのか?


 そんな僕の混乱をよそに、四人の視線は交錯した。


 そこに在るのは、本との繋がりと、グリンネルという求心力によって生まれた、新たな絆。


『ルト。彼のコレクション読みたいんだよね?』


 イルはこっそりと語りかけてきた。


『……まぁ、興味はありますが』


『機嫌悪いの? グリンネルが苦手だから』


 イルは僕の混乱と、複雑な感情を的確にとらえていた。

 確かに、陽キャ特有のあの眩しさが、陰湿な僕の魂をジリジリと焼いている。


『うるさいですね。器のくせに分かったようなことを……』


『はいはい、ここは私に任せて。ルトのために一肌脱いであげるんだから』


『僕のためじゃなく、早く僕を追い出したい、キミのためでしょう』


『にゃはは、バレたか』


(…やはり、さっきの違和感は気のせいか)


 そんな僕たちの会話を知る由もなく、店主は四人の反応を受け、満足そうに微笑むと、机の引き出しから古い地図を取り出し、彼らの前に広げた。


「ありがとう。君たちなら、きっと成し遂げてくれるだろう」


 そして、誰にも聞こえないような小さな声で、彼は呟いた。


「世界は語られるのを待つ書物、汝らはその最初の一行だ」


 まるで、遠い未来で読まれる物語の結末を、彼だけが知っているかのように。


 深い期待と、一抹の不安を滲ませたその眼差しは、静かに、しかし熱く、彼らの前途を祝福していた。

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