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S-37 「もう終わりだよ……この国は……!」

バイレスリーヴ/闘技場【視点:世界(観測者)】


 突然の異形による襲来で、バイレスリーヴ闘技場は一瞬にしてパニックに陥った。


 悲鳴が渦巻き、人々は我先にと出口へ殺到する。観客席の通路は人で溢れかえり、転倒した者が次々と踏みつけられていく。


「な、なんだあれは!?皆さん!落ち着いてください!落ち着いて逃げてください!」


 司会のサファルは、混乱を収拾しようと声を張り上げる。その声は恐怖で裏返っていたが、それでもプロとしての意地か、必死に避難誘導を続けようとしていた。だが、彼の言葉は、もはや誰の耳にも届かない。ただただ、異形の姿を映し出す舞台に、人々の絶叫だけが木霊していた。


 その中で、右肩を負傷したファルクレオは、血を流しながらも巨大な大剣を握りしめ、その異形と対峙した。


 それは、深海の悪夢がそのまま陸へ這い上がってきたような存在だった。


 全身は細長い魚のような形状をしながらも、不気味なほど発達した四肢を持つ。その口先は目元から異様に長く伸び、獲物に突き刺して内臓を吸いつくすストローのような形状をしている。固定された関節は見当たらず、常に全身がぬらぬらと波打ち、まるで生きている鞭のように蠢いている。


 足から立ち上がっただけでも大人二人分の身の丈に達し、そのおぞましい体を真っ直ぐに伸ばしたならば、その倍の長さにまで達するだろう。


 貴賓席は、ただの混乱をはるかに超えたパニックに陥っていた。


「ばっ、化け物!海から這い出た化け物だ!外海からやってきたのか!?」


 連合王国の使者アウルスは悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちるように身を縮めた。彼の隣では、帝国将軍カースランが顔を真っ青にして叫ぶ。


「まずいな……あれは、外海の魔物ヴュールだ!概念の彼方の亜人よりも厄介な、厄災の権化だぞ!」


「ば、馬鹿な!ヴュールだと?!巨大海門があるのに、どうやって内海まで入ってきたんだ!」


 周囲の使者たちは、恐怖で顔を歪めながら口々に囁き合う。


「あれは……あのお伽噺の魔物なのか……!?」


「こんなものに殺されるなんて……いやだ、誰か、誰か倒せる者はいないのか!」


「もう終わりだよ……この国は……!」


 恐怖を前に、彼らの威厳ある表情は崩れ去り、ただの怯える人間に戻っていた。その混乱の中、ただ一人、異質な存在がいた。


「ほう……」


 ザーラム共和国執政官バージェスは、その豊満な体を椅子に深く沈めたまま、僅かに驚きの色を浮かべただけで、微動だにしていなかった。その目は、恐怖ではなく、貪欲な好奇心で異形を値踏みしている。


「ギシャ!」


 異形の魔物は、その喉元からおぞましい唸り声を上げると、ファルクレオに向けて、鞭のようにしなった巨大な尾を振り回した。


 その一撃は、大地を揺るがすほどの質量を持ち、湾曲するごとに遠心力で威力を増し、視認不可能な速度でファルクレオを襲う。


 ファルクレオは、この攻撃を回避することは不可能だと瞬時に悟った。彼は、身の丈ほどもある大剣を盾のように構え、全身の筋肉を鋼鉄のように硬質化させて受け止める。


 ドォン!!


 岩が落ちるような轟音とともに、ファルクレオの足は地面を深く抉り、数メートルも後方へ押し流された。


 その腕は痺れ、大剣を握る手が微かに震えている。絶対的な強者であるはずのファルクレオの体勢が、たった一撃で崩されたのだ。


 それは、闘技場に残るすべての人間に、抗うことのできない絶望を突きつけた。


 ファルクレオがたたらを踏んだその影から、グリンネルが身を躍らせた。炎を纏った片手剣を横一文字に薙ぐ。燃え盛る三日月状の斬撃が、うなりを上げて魔物へと飛んでいく。


 だが、異形はまるでそこに存在しないかのように、その細長い体を鞭のようにしならせた。わずかに体を傾けただけで、グリンネルの渾身の一撃は、空を切る音さえ立てずに虚しく通り過ぎた。


 グリンネルの炎の斬撃が虚しく通り過ぎた直後、異形の魔物は、その長くおぞましい口先を空に向け、人には聞き取れない、まるで深海の潮騒のような言葉を唸り始めた。


 次の瞬間、その全身から青い魔力が溢れ出し、異形の前方に、巨大な青い光の渦が出現する。


「嘘だろ!魔法も使えるのか!?」


 グリンネルは思わず叫んだ。


 それは、彼らの常識を根底から覆す光景だった。


 剣技だけでなく、魔法さえも操るその姿は、まるで抗うことすら許さない、絶対的な破壊の権化のように見えた。


 グリンネルは、自身とファルクレオがヴュールの魔法の標的になったことを悟る。その光の規模から、もはや逃れる術はない。


 直後、轟音と共に、青い光の渦から強烈な水飛沫が津波のように噴き出した。水が空気を震わせ、すべてを洗い流すかのように二人を飲み込もうと迫る。高圧の水流は、岩盤すら削り取る凶器だ。


 その刹那。彼らの目の前に、眩い光を放つ巨大な魔法障壁が、間一髪で展開された。


 ドォン!


 鈍い音とともに、障壁は水飛沫を真正面から受け止め、霧散させる。

 水蒸気が立ち込める中、グリンネルとファルクレオの背後に、杖を前に突き出したダイアナの姿があった。


 顔には汗が流れ、肩で息をしている。


 彼女は、キノルとの戦いで負ったダメージを押して意識を取り戻し、魂を削るような思いでこの魔法を発動したのだ。


 その必死な表情は、彼女がどれだけの力を振り絞ったかを物語っていた。鉄花のダイアナの矜持が、彼女を立ち上がらせたのだ。


 ダイアナの魔法障壁サンクタムが水飛沫を弾き返した直後、その障壁の前方が一瞬、眩い光を放った。


 次の瞬間、ズドン!という轟音とともに、雷が空気を切り裂き、魔物の体を貫く。


「キノル!」


 オリアンの叫びが響き渡る。


 ギャシャァァ!?


 雷を浴びた魔物は、その身を痙攣させ、苦悶のうめき声をあげた。キノルの雷撃クッキー・インパクトは、硬い鱗に覆われたその体をわずかに焦がし、動きを鈍らせたように見えた。


「いける!効いた!」


 しかし、それは、さらなる絶望への序章に過ぎなかった。


 雷撃を浴びた異形の海人は、怒りで全身をわなわなと震わせた後、そのおぞましい体を鎌首をもたげるように縮ませた。


 そして次の瞬間、蓄えられた力が一気に解放され、まるで巨大な槍が放たれたかのように、信じられない速度で魔法障壁へと特攻を仕掛ける。


 ズオ"ォン!


 ダイアナが展開した魔法障壁は、轟音とともに貫かれた。ヴュールの身体は、まるで岩をも砕く鋭利な刃物のように、障壁を突き破る。


 その勢いは衰えることなく、障壁の後ろにいたキノルの心臓をあとわずかで貫かんとしていた。


 その瞬間。まるで舞台の演出のように、唐突な風が吹き荒れた。その風は、闘技場を埋め尽くす土埃を巻き上げ、一瞬にして視界を奪う。


 刹那、キノルの身体がふわりと宙に浮き上がった。


 彼女の背後には、今の攻撃の余波を受けて下半身が吹き飛ばされつつも、その黒いローブを翻すファイネがぴったりと張り付いている。


 彼女は自らの魔力で風を操り、まるで羽が生えたかのように自分とキノルを宙へ舞い上がらせたのだ。


「おぉっと!奇術師ファイネ!どういうことだ!?下半身が無くなったぁ?なのに、ものともしていない!?身体はどうなっているんだ!?浮いているのは魔法の力なのか!?」


 サファルの叫びが響く。


 彼女の秘められた力、《風凪魔法》


 風の流れを操り、自身の身体、そして他者の身体をも宙に浮かせる。


 そして、そのズタズタとなったローブがはためく姿は、まるで死神が獲物を連れ去るようにも見えてしまう。


 特攻した先で、闘技場の石壁に口から突き刺さった異形の魔物は、そのおぞましい巨体を震わせながら、ゆっくりと壁から抜け出した。その四本指の手には、最初に投げ込まれ、同じく壁に突き刺さっていた三叉のほこが握られている。その三叉の分岐部分には、深い蒼の宝石が怪しく光り輝いている。


 武器を携えた魔物は、圧倒的な存在感を放ち、ファルクレオ、グリンネル、ダイアナ、キノル、そしてファイネへと向き直った。


 それは、まるで強大な力を持った魔王が、その王笏を手に取ったかのようだった。


 五人の剣闘士たちの顔に、再び絶望の色が浮かび上がった。

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