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S-35 「賑やかなお友だちだ」

バイレスリーヴ/潮風通り【視点:蒼髪の少女イル】


 決闘大会クレイヴァートの日の街中は、普段の活気に加えて、潮風に乗って漂う出店の甘く香ばしい匂いが混ざり合っていた。


 石畳の通りには、海に面したこの都市ならではの、魚介を焼く香りが立ち込めている。私は、その匂いにつられそうになるのを我慢しながら、《書店の書庫》へと全力で走っていた。背負った革袋の中の葡萄酒が、走るたびにちゃぷちゃぷと音を立て、私の心を急かす。


『……もう少し速度を上げられませんか?』


 私の中にいる霊体の少年、ルトが、脳内で冷ややかに囁く。彼の声には、会場の熱気など微塵も感じられない。


『「光りも…」いや、グリンネルが負けるのは勝手ですが、計画に支障が出ますよ』


『負けるとか言うなし』


 ルトの小言を聞き流しながら、私は街の中を駆け抜けていく。きれいに敷き詰められた石畳の大通りから裏路地へ。海から離れるにつれて潮の匂いが薄まり、乾いた埃の匂いが混じり始めたところで、《書店の書庫》の古びた看板が潮風に揺られているのが見えてきた。


 私は勢いのまま書店に飛び込んだ。決闘大会の喧騒から離れたこの場所は、まるで別世界のように静まり返っていた。漂うのは、本の紙とインクの匂い。いつもなら落ち着くこの香りが、今日は焦燥感を煽る。


「どうかしたのかね?」


 カウンターの奥で執筆作業をしていた店主のニーネッドが、顔を上げた。いつもの穏やかな表情。しかし今日はその奥に、どこか鋭い気配を感じた。


「ニーネッドさん!グリンネルの試合前に、キノルの回復薬を……!」


 私は息を切らせながら事情をまくし立てた。


「店の奥、キノルが寝泊まりしている部屋を探してみるといい」


 ニーネッドはペンを走らせたまま、奥の扉へ視線を送った。


 その扉の先の通路にも、天井に届くほどの本の山が所狭しと並べられており、歩くのにも苦労する。私は身体を細めて、本の山の間を進んでいく。こんな時でも、並んだ本の背表紙が目に入ってしまう。


『……壮観ですね』


 ルトが私の肩から霊体を表出させ、積み上げられた古書を見回した。


『以前から感じていましたが、ここの蔵書量は異常です。一国の図書館をも凌ぐ密度だ。……知の集積地とでも呼ぶべきか』


 魔術オタクの血が騒ぐのか、彼の視線は熱を帯びている。


『この部屋かな』


 私は、廊下の先にそれらしい部屋の扉を見つけた。扉を開けると、中は意外にもきれいに整頓されている。というよりも、生活感がないほど物が少ない。壁には黒き森で着ていたローブと帽子。ベッドのサイドテーブルには、栞が挟まれた読みかけの本『俺流、魔術師の戦術指南書』。


 キノルらしい。


 その他、部屋を見渡すと、ベッドの横に大きなチェストが置かれているのを見つけた。


『あれっぽいですね』


『うん』


 私はチェストに鍵がかかっていないことを確かめ、蓋を開けた。中には、木製の櫛やいくつかの小瓶、匂い袋や髪留め等が雑多に入れられている。ただ、キノルが言う《魔力の雫》と《生命の丸薬》がどれなのか、見当もつかない。


『ルト、どれ?』


『……知りませんよ』


 ルトは興味なさそうに答えた。


『僕は、女性の持ち物に興味などありませんから⋯』


『使えないなぁルトは。女の子のこと全然知らないんだね』


 私の言葉に、珍しく動揺したルトの霊体の色が薄くなる。


『むぐぐっ⋯そんなことより、それっぽいものを全部持っていけば良いじゃないですか!』


『雑だなぁ……』


 確かに、一つ一つ確かめている時間は惜しい。私は、チェストの中のモノを、自分の鞄に詰め込み、散らかしていないことを確認して部屋を出た。


「探し物はあったかい?」


 背後からの声に、心臓が跳ねた。振り返ると、書店店主ニーネッドが立っていた。


『……ッ!?』


 ルトが息を呑む気配がした。あまりにも気配がなかった。この人、やっぱり只者じゃない。


「あ、なんかよくわからなかったので、取り敢えず全部持っていくことにしました!」


 私はキノルの所持品でパンパンになった鞄を叩いて見せた。店主は苦笑し、部屋の奥にある棚の上を指差した。


「ふむ。私の目には……あそこに《それらしき物》が置かれているのが見えるが、気のせいかな?」


 視線を向けると、棚の上に神秘的な輝きを放つ小瓶と、刺繍入りの小袋が置かれているのが見えた。


「絶対あれじゃん!」


 流石の私でも、その雰囲気からして、一瞬でそれが目当てのものだと理解できた。


『店主が来なければ、キミの信用がガタ落ちするところでしたね』


 ルトがバツが悪そうに、しかし尊大に告げる。


『僕の「器」の評判が失墜しなくて何よりです』


『ルトの目が節穴だって、よくわかったよ』


『自分の観察眼の無さを棚に上げないでください』


『うっさい!』


 私は慌てて鞄に詰めた私物をチェストに戻し、代わりに棚のアイテムを鞄にしまう。


「危なかった、助かりました」


 私は心からの感謝を込めて店主にお礼を言う。


「ははは、賑やかなお友だちだ」


 店主は私の肩のあたり――ルトがいる場所――を一瞬見たような気がしたが、すぐににこやかな笑顔に戻った。私は深々と頭を下げ、店を後にした。


 もう一度、決闘大会の会場へ向かって駆け出す。グリンネルは、まだ持ちこたえてくれているだろうか。その不安を胸に、私は全速力で石畳を蹴った。

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