S-33 「そこ、隙だらけだ」
バイレスリーヴ/闘技場/舞台【視点:世界(観測者)】
ファルクレオの強烈な斬撃が、グリンネルの足元を掠めた。大剣が地面に深々とめり込み、轟音とともに大きな土煙が舞い上がる。
その一瞬の隙――視界が遮られた瞬間を、グリンネルは見逃さなかった。
舞い上がる土煙の中、彼は素早く身を翻し、右足で地面を強く蹴りつけた。その反動を利用し、驚異的な跳躍でファルクレオの頭上、死角へと舞い上がる。
ファルクレオが、驚きに目を見開いた。
その瞬間、グリンネルの片手剣が、鋭い音を立ててファルクレオの頬を狙う。空気を切る乾いた音。直撃コース。
だが、ファルクレオは人間離れした反応速度で身体を大きく捻り、その切っ先を紙一重で回避した。頬に赤い線が走るのみ。
そして、その回転の勢いを殺すことなく、大剣を振るう。下段から巻き上げるような大剣が、空中にいて回避不能なグリンネルの胴を狙う。
ガィィィン!!
再び重い音が鳴り響いた。グリンネルは咄嗟に剣を持ち替えて刃で防ごうとするも、ファルクレオの剛力は甲高い音と共に剣を弾き飛ばし、グリンネルの体勢を崩した。その隙を、古強者が見逃すはずもない。
ドゴォッ!!
ファルクレオの強烈な蹴りが、鈍い音を立てて、無防備なグリンネルの腹部に叩き込まれた。
「がはっ……!」
グリンネルは後方へと吹き飛び、土埃を巻き上げながら転がる。なんとか受け身を取って距離を取り、膝をついて体勢を立て直すが、その顔は苦痛に歪んでいた。肋骨が軋むほどのダメージだ。
この間、師弟の間で言葉のやり取りは一切ない。しかし、攻撃を避けられた後のファルクレオの口元には、微かな笑みのようなものが浮かんでいた。弟子の目覚ましい成長への驚きと、喜び。
そして、強烈な蹴りを受けたグリンネルの脳裏には、かつての記憶が鮮烈に蘇ろうとしていた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/闘技場/舞台【視点:奴隷剣闘士グリンネル】
ファルクレオの容赦ない蹴りが、俺の胴に叩き込まれた。鈍い痛みが内臓を揺らし、肺から空気がすべて押し出される。呼吸が追いつかない。それでも、俺はこの痛みの中に、強烈な懐かしさを感じていた。
(……これは、あの時の痛みだ)
相変わらず馬鹿みたいに重い、師匠の蹴り。この衝撃は、肉体の痛みと共に、かつての記憶の扉をこじ開けた。
■ ■ ■
【七年前】レクイウム連合王国/ロスミネラ領/街道
馬車の揺れは、ロスミネラを出てからずっと変わらない。だけど、10歳の俺にとっては、車窓を流れる景色の移り変わりや、道中での出来事全てが新鮮だった。
雇い主のルーガットさんは、「奴隷商」と呼ばれるにはあまりに異質な男だった。
彼は貧しい子供の奴隷たちを買い集めていたが、俺たちに鎖や縄はつけない。いわゆる奴隷的な労働もさせない。共同生活をするための最低限の規律以外は、馬車の荷台で自由にさせている。だが、彼の躾は厳格で、その鉄の規律は俺たちの心に深く刻み込まれていた。
「自ら考え、自ら動け。鎖に繋がれた家畜になるな」と。
ルーガットさんのキャラバンは、護衛数名と俺たち子供20人近くを乗せた巨大な馬車、そして数台の荷馬車という編成だった。
俺は、奴隷でありながら護衛の任務を志願しており、馬車に入って他の子供の相手をしたり、キャラバンに並走して走ったりしていた。
「グリンネル、そこの花摘んで!」「あたしが先に言おうとしたんだよ!」
馬車の中から、子供たちの無邪気な声が響く。平和な旅路。しかし、街道からは鳥や獣の鳴き声が消え、やけに静かだった。
突然、その平穏は破られた。
「止まれ!金目のものは全部置いていけ!」
冒険者崩れの野盗どもだ。
彼らは、俺たち子供が大半を占めるキャラバンを見て、容易い獲物だと思ったのだろう。泥と血の匂いを混ぜたような、下品な連中が道を取り囲む。
「……排除しろ」
ルーガットさんの静かな号令と共に、護衛たちが応戦する。そして、俺の隣にいた師匠、ファルクレオが動いた。
彼はいつも無口で、ただそこにいるだけで巨大な岩のような圧力を放っている男だ。
彼の得物は、身の丈を超える両手剣。しかし、その剣は鞘から抜かれることすらなかった。
師匠は、獣のように低く唸り声を上げると、地面を蹴った。その瞬間、彼の巨体は重力を無視したかのように加速し、野盗の集団に突っ込んだ。彼の動きは、俺が今まで見た何よりも速く、そして正確だった。
ドスン!バキッ!
鈍い音が響くたび、野盗が宙を舞う。師匠は、鉄の拳や肘、膝といった体術だけで、野盗を次々と叩き伏せていく。
まるで、彼らが紙細工の的であるかのようだ。野盗たちが剣を振るう隙は、1秒と与えられない。その戦闘は、瞬きする間に終わろうとしていた。野盗たちのほとんどは、地面に呻き声を上げて転がっていた。
「グリンネル、行け」
ルーガットさんの声が響いた。俺は反射的に、残っている野盗の一人に立ち向かった。腰に差した、身長に合わない片手剣を抜き、構える。
この数ヶ月、師匠は俺に剣術と体術を組み合わせた、《ドルハ・起源流》の基本を叩き込んでくれていた。それは、人間の身体能力を最大限に生かし、時には力でねじ伏せ、時には流れるように捌き、時には最小限の動きで相手の急所を突く、無駄のない実戦武術だった。
「ちくしょう、ガキまで出てきやがったか!」
野盗は怒鳴り、汚れた片手剣を無造作に振りかざした。
俺は、教えられた通りの体術の型で、その剣戟をいなし、返す刃で野盗の手首を狙った。男は驚き、大きく後ずさる。
(いける。師匠の教えの通りに動けば!)
慢心があった。焦る野盗は、態勢を立て直すため、大振りで剣を振り下ろした。俺はそれを片手剣で受け流すことに意識を集中した。
その瞬間、自分の体が無防備になっていることを、本能が警告した。そうだ、受け流しに意識を集中しすぎた。胴ががら空きだ。
野盗は、その致命的な一瞬の隙を見逃さなかった。彼はニヤリと笑い、剣先を俺の腹に向けて突き込んできた。
その刹那だった。俺の視界が激しく回転した。
ドンッ!
腹に強烈な衝撃が走り、俺は真横に吹き飛ばされた。受け身も取れず、地面を数回転がったところで、激しい痛みに喘いだ。呼吸ができない。肺の中の空気が全て絞り出されたような感覚だ。何が起こった?
「そこ、隙だらけだ」
冷たい、無機質な声が響いた。
顔を上げると、そこには、俺を蹴り飛ばした師匠の鋼のような足があった。師匠は、俺と目をしっかり合わせ、無造作に俺の胴を指さした。
『――ドルハ・起源流は、剣と身体が一体となって初めて成立する。その胴の三寸は、剣先が届かぬ場所でも、命を刈り取るに足る急所だ。それを晒すは、死と同義――』
無口の師匠が、以前語った言葉の重みを思い出す。それは、俺の肋骨に響く痛みよりも遥かに重かった。
俺の体が宙を舞っている間に、野盗の剣は空を切っていた。野盗は、状況を理解できていなかった。彼は、俺を助けた(蹴り飛ばした)師匠に驚き、呆然と立ち尽くしている。
師匠は、俺に視線を向けたまま、野盗に初めて両手剣をゆっくりと向けた。その剣先は、冷たく光っている。野盗は、自分の仲間がすでに全員戦闘不能になっていること、そして自分が子供の訓練台にされていたという事実に、顔を蒼白にさせた。彼は絶望と屈辱に膝を突き、剣を地面に落とした。
「降参だ!命だけは……」
ルーガットさんは、馬の上からその野盗を鋭く見つめる。
「……よかろう」
師匠は言葉をあまり使わなかった。鍛錬に時間を割くため、言葉を覚えることさえ億劫だったのかもしれない。だが、その重い蹴りが、剣の軌道が、そしてその背中が、すべてを教えてくれた。
当時の俺は、ただ「強くなること」だけを最大の目標としていた。奴隷として生きてきた過去から逃れるため、ひたすら剣を求めた。そんな俺の懇願を、師匠は無言で受け入れ、極限まで追い詰めてくれた。
今から考えても、師匠のやり方は頭がおかしいと思うほど容赦がなかった。だけど、そのおかげで、たった二年という短い間で、俺は「ドルハ・起源流を名乗って良い」と師匠に言わせるほどの実力を身につけることができた。
もしかしたら、強くなければ死んでいたかもしれない。そんな極限状態の中で、俺は剣の道を駆け上がったのだ。
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バイレスリーヴ/闘技場/舞台
あれから、七年の月日が流れた。俺は自分に実力がついたと自惚れていた。
フロースフォンスの闘技場で戦いに明け暮れた日々、キノルやニーネッドと旅の道中。ずっと剣の腕を磨いてきたつもりだった。だが、師匠は、まるで成長していない子供を見るかのように、俺を圧倒した。
確かに、試合が始まってから今まで、師匠との間に、攻めに転じる隙なんて全くなかった。ギリギリで防ぐのがやっとだ。
だけど、俺はまだ師匠に、全てを見せていない。魔術師たちとの旅で編み出した技を。
この闘技場、そしてこの一戦が、師に成長した姿を見せるための、最初で最後の絶好の機会なのだから。
「躯に刻まれし、炎破の起源よ、今、剣に宿れ!」
俺の詠唱が、闘技場に響き渡った。そして、手にした片手剣が、紅蓮の炎を纏い始めた。




