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S-25 彼女は走る、誰が為に

【あとがき】

あけましておめでとうございます!新年最初の更新です!今年も何卒よろしくお願いします!

バイレスリーヴ/闘技場【視点:世界(観測者)】


 舞台にルーガットただ一人である事実に、観客はどよめきを隠せなかった。


 このような事態は前代未聞。


 不運にもオリアン陣営に賭けた者は、戦いを見ることなく賭け金は没収されることとなる。会場全体には、彼の不在を確信する諦めと失望のムードが漂っていた。


「さぁ、間もなく第一試合の開始時間ですが、残念ながらオリアン氏は現れませんでした」


 司会のサファルが、闘技場に掲げられた巨大な魔法仕掛けの時計を眺める。銀色の歯車がゆっくりと噛み合い、真鍮の針がカチリと音を立てて動く。


 それは、あと数秒で開始時刻を示そうとしていた。


 会場の興奮は次第にざわめきへと変わり、人々の間には諦めと失望の空気が満ちていく。


 その時。


 会場のどよめきが、一瞬にして静寂へと変わった。


 観客たちの視線が、一斉に闘技場の端、観客席の入り口に注がれる。


 そこに立っていたのは、酷くやつれた一人の青年だった。


 オリアン・ワードベック。


 彼はよろめきながら、しかし、確固たる意志を宿した瞳で、舞台の中央へと向かって歩み始める。その一歩一歩は、まるで全身の力を振り絞るかのようだった。


 観客たちは、誰もが「間に合わない」と確信していた。時計の針は無情にも進み、開始時刻まであとわずか。しかし、彼は止まらない。


 彼が走るたびに、地面の砂が舞い、観客の期待が膨らむ。そして、彼は最後の力を振り絞って、滑り込むように舞台にたどり着いた。


 まるで、運命の糸をたぐり寄せたかのように、彼は、対戦の資格を失う直前に、戦いの舞台に立った。


 ルーガットと向かい合った彼は、その男から目を離さなかった。その目は、疲労と絶望の淵から這い上がってきたばかりだというのに、決して揺らぐことはなかった。


「オリアン・ワードベック……遅れて、すみませんでした」


 その声は、息も絶え絶えだった。それでも彼は、向かい合うルーガットから決して目を離さず、深々と頭を下げる。


 顔を上げたオリアンの口から、疲労の影を宿しながらも、確固たる意志に満ちた言葉が放たれた。


「さあ……僕が、また収監される前に……早く、始めましょう」


 その瞳には、どんな絶望にも屈しない、確固たる意志の光が宿っていた。


 彼の奇跡的な登場に、会場が沸いた。驚愕は歓喜へ、そして熱狂へ。突き上げるような大歓声が、天を突いた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/崖下の監獄【視点:臆病者オリアン】


――時間はわずかに遡る。


 湿った冷気が肌に張り付く。背中を預けた石壁の冷たさが、唯一の現実だった。


 鉄格子の向こうからは、他の囚人たちの低いうめき声や、絶望を咀嚼するような重い吐息が聞こえてくる。不条理に満ちた日常を繰り返す、この世の掃き溜め。


「……意外と、居心地がいいんだな」


 ポツリと漏らした言葉は、現実から目を逸らすための虚しい強がりだ。


 今頃、地上の闘技場では決闘大会クレイヴァートが始まり、熱狂の渦が巻いているだろう。僕の席は空席のまま。その不戦敗に、どれほどの人が安堵し、どれほどの人が失望しただろうか。


(想像するのも虚しい……)


 僕は、完全に終わった人間だ。この無様な物語は、間違いなく後世に語り継がれる笑い話になる。


 タイトルはさしずめ『ダメ息子オリアンの奮闘記 〜そして誰も見なくなった〜』といったところか。


(本当に、僕らしいや)


 自嘲する乾いた笑いがこみ上げそうになった、その時だった。


 カツ、カツ、カツ。


 硬質なブーツの音が、冷たい床を叩いて近づいてくる。


 その規則正しいリズムは、僕の檻の前でぴたりと止まった。


 ガチャリ。


 鍵が回る無機質な音が、心臓を鷲掴みにする。


(まさか……)


 嫌な予感が背筋を駆け上がった。


 鉄扉が開き、無表情な看守が入ってくる。彼は何も言わない。ただ、事務的な手つきで僕の腕を掴み、視界を奪うための黒い布を乱暴に押し当てた。


「っ!? な、何を……!」


 視界が闇に閉ざされると同時に、身体を強引に引きずり出される。


 この扱いの雑さ。事前の通告なしの連行。混乱する頭の中で、最悪の答えが弾き出された。


(まさか、死刑?)


 そう認識した瞬間、諦めかけていたはずの感情が、「死にたくない」という原初的な恐怖に塗り替えられた。


「ど、何処へ……連れて行くんですか……!」


 声が情けなく裏返る。しかし、看守は石像のように沈黙したまま、僕の背中を突き飛ばすようにして歩かせた。


「おぉ? 坊っちゃん、ついにギロチンとご対面か! 首と胴体がお別れだな、げはははは!」


「ひゃはぁ! この時間に連れ出されるたぁ、絞首刑か? 見せしめだな、あぁ可哀想に!」


 他の檻から、囚人たちの下卑た野次が飛んでくる。その嘲笑は、僕の想像が「正解」であることを裏付けているようだった。


(嫌だ、嫌だ!死にたくない!)


 足がすくみ、膝が笑う。


 嘲笑が遠ざかるにつれて、廊下の空気はより冷たく、重くなっていく。自分の心臓の音だけが、耳元でうるさいほどに鳴り響いていた。


 どれくらい歩いただろうか。


 不意に、鼻をつく黴の臭いが消え、代わりに潮の香りを含んだ清涼な風が頬を撫でた。


 (外……? 処刑台か?)


 身構えたその時、カチャリと音がして、目隠しが外された。


「――っ!」


 突然の陽光に、僕は目を細める。


 白い光の中で、最初に飛び込んできたのは、処刑台でも、首切り役人でもなかった。


「オリアン、迎えに来たよ!」


 サファイアのような蒼い髪。透き通るような白い肌。

 太陽の光を背負い、キラキラと輝くその人は――イルだった。

 僕はただ、呆然と立ち尽くすことしかできない。思考が追いつかない。


「イ、イル……さん? ……ほ、本物……ですか?」


「え? 私、どこか変かな?」


 彼女はきょとんとして、自分の服や手足を確認する。その緊張感のない、あまりにも彼女らしい仕草。幻覚じゃない。走馬灯でもない。


「も、戻ってきてくれた……」


「感動の再会はこの辺にして、急ごう! 決闘大会クレイヴァート、出るんでしょ!」


 彼女は僕の言葉を遮り、有無を言わせぬ力強さで僕の手を掴んだ。その手はほんのり冷たく、僕を現実に引き戻す。

 

 わけもわからず、僕は彼女に引かれて走り出した。

 

 そして間もなく、僕たちの左右から、新たな足音が重なった。


「グリンネル……さん? キノル……さん?」


 信じられない思いで名を呼ぶと、右側から背中をバシン!と力強く叩かれた。

 同時に、左側からはコツン、と硬い杖の先で頭を小突かれる。

 痛い。けれど、それが嬉しかった。


「へへ!オリアンの大根役者ぶりには呆れたぜ。あの程度の嘘で俺たちを騙せると思ったか?」


 グリンネルは息を切らしながらも、ニカッと笑って見せる。


「……イルに説得されなきゃ、グリンネルは本気にしてたけどね」


「おい! キノルも荷造りしてただろ!」


 キノルが冷静に暴露し、グリンネルが慌てて突っ込む。


 その光景が、たまらなく愛おしい。


「二人は……戻ってきてくれたんですね。僕が、あんな酷い突き放し方をしたのに」


 僕の言葉に、グリンネルは視線を逸らして鼻を鳴らす。


「まあ、怪しいとは思ってたんだよ。俺はバカだし、キノルはクソ真面目だから騙されかけたが……」


 そこでキノルが、僕の隣を走るイルに視線を流した。


「イルなんて、私達が街からかなり離れてたのに……喉がカラカラになるまで走って追いかけてきて。君のために泣いて頼み込んできたんだよ。……ほんと、狡いよね」


 キノルの口元が、微かに緩んでいる。


 それを聞いたイルは、顔を真っ赤にして全力で否定した。


「はぁ!? 泣くわけないじゃん! 目に何か…⋯よくわかんない変なのが入っただけだし!」


 グリンネルが笑う。僕もつられて笑った。

 イルは、僕の前から黙って消えたんじゃなかった。僕を見捨てたわけでもなかった。


 本当は、僕が遠ざけてしまった二人を、必死になって連れ戻しに行ってくれていたんだ。


 僕たちは、あの時と同じように四人で走っている。


 黒き森で、あの恐ろしいライカンスロープから逃げ出した時と同じだ。でも、あの時とは違う。逃げるためじゃない。今度は、立ち向かうために走っている。


 消えてなくなったと思っていた僕の心の炎。それが、冷え切った炭に風が送られたように、一気に燃え上がった。


 いや、以前よりもずっと強く、全身を焼き尽くすほどの熱量を持って。


(……ああ、そうだ)


 これからの物語は、もはや僕が読んできたどんな本にも、どんな英雄譚にも記されていない。


 結末なんて誰にも分からない。


 僕は走りながら、自らの頭の中に浮かんだ新たな「白紙の物語ストーリー」を、熱く燃え上がる心の炎と共に、静かに、そして強く噛みしめていた。

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