S-22 「国を呪うな、私を呪え」
バイレスリーヴ/闘技場/貴賓席【視点:臆病者オリアン】
会場には割れんばかりのどよめきと笑いが巻き起こった。
しかし、僕にはその歓声も笑いも、もはや遠い他人事のようだった。今まで目の前で繰り広げられてきた武闘演舞は、すべて色褪せた絵本の中の空虚な場面にしか感じられない。
何故なら、今朝、僕にとって最大かつ最期の光であり、ずっとそばにいてくれたイルまでもが、僕の元から消えていたのだ。
僕の本が読みたいと優しく言ってくれた彼女だけは、あんなに穏やかな言葉をかけてくれた彼女だけは、僕が街中で叫びまわるのを、ずっと隣で聞いてくれていた彼女だけは、僕のことを見捨てないと信じていたのに。
今朝、彼女の気配がどこにもないことに気づいた瞬間、僕の足元から地面がごっそりと消えたようだった。僕は、一度希望を見ただけに、希望を見ずにここまで来た世界よりも遥かに惨めに感じた。
(やっぱり、僕が信じられるのは本だけだ。そんなことは初めから気づいていたじゃないか)
僕には、こんな華々しい場所は似合わない。一生穴倉から出ず、ミミズのように暗い場所で、独り本を読んで生きていくのがふさわしい人間なんだ。
悲観に悲観を重ね、心が完全に消耗しきっていたその時、僕の目の前に二人の衛士が立ちはだかった。
「オリアン・ワードベック。ラクリマ所持及び密売容疑で身柄を拘束する」
彼らは、僕のポケットから、見覚えのない紫色の小瓶を取り出して証拠として突きつけた。そんなもの、今まで見たことも触ったこともない。瞬時に、これが濡れ衣だと理解した。これは、僕を完全に潰すための、何者かの周到な策なのだろう。
だが、僕は、もはや抵抗する気力すら無かった。
この事態は、おそらくすべて僕が招いたものだ。グリンネルやキノル、そしてイルまで巻き込んだのは、僕の勝手な思い上がりだった。誰も悪くない。きっと。
ただ最後に、ピエロになれたことは、冥土の土産にはちょうどいい。最後に一矢報いたいという、ちっぽけな自尊心。それを演説という形でぶちまけた。街の人々が驚き、そして、嘲笑う。それでいい。この身を晒して、醜態を晒して、破滅のピエロになれた。それが、唯一の救いだ。
衛士に連行される僕の喉から、奇妙な音がこぼれ出た。それは、笑いだった。
これほどまでに完璧な失敗者になれるなんて、ある意味才能だ。この一連の出来事は、きっと後世に語り継がれるだろう。俯いた僕の顔は、感情を超えて歪んでいた。
目から涙は出なかったが、頬の筋肉がひきつり、口角が不気味に吊り上がっていた。
もはや感情の制御などできなかった。これは、絶望や悲しみを超越した、すべてを悟りきった者の笑いだ。
鎖の音、衛士の足音、人々の囁き声。それらすべてが、僕の耳には遠い世界の喧騒に聞こえた。僕という存在は、もうこの世界から切り離されている。
「国を呪うな、若者よ。私を呪え」
去り際に、アドホックが微かに呟いた。その悲壮に満ちた声だけが、僕の耳には奇妙なほど鮮明に聞こえた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ/闘技場/貴賓席【視点:世界(観測者)】
オリアンが連行されていくのを横目に、ルーガットは隣のアドホックを牽制した。
「若年者に対して、やりすぎるのは好かん」
アドホックは、その言葉に目を閉じ、静かに返す。
「私の本意ではない……それに、私に言わせれば『どの口が言う』としか思えませんな」
アドホックは、議員席で項垂れているダイアナを一瞥した。
ルーガットは、ダイアナが裏で色々と動いていたことは知っていたが、その一つ一つの詳細までは知らない。しかし、彼は彼女に全幅の信頼を寄せているため、エドワルドの息子に何か手を回していたとしても、聡明な彼女の行いは過ぎたることはない、と信じていた。だが、アドホックの言い様は、その信頼を揺るがすものだった。
項垂れていたダイアナは、その言葉に顔を上げ、刺すような形相でアドホックを睨みつけた。
「あなた、ラクリマにまで手を伸ばしたのね」
「そう言うからには、証拠はあるのでしょうな」
アドホックは眼球を僅かにちらつかせ、顎に手をやった。
ダイアナは感情を爆発させた。
「証拠?……何を今さら……私の大切なローカンを殺したザーラムと繋がっている。十分すぎる状況証拠があるじゃない!」
長年の経験を持つルーガットは、そのやり取りから相手の思考を即座に読み取った。アドホックが一瞬視線を泳がせたのは、彼が動揺した時の癖。即ち、ラクリマと彼が関係していることを物語る。そして、顎に手をやるのは、自信がある時。
つまり、ラクリマと関係はあるものの、それが明るみに出ないほど周到に工作しているか、あるいは彼の意思によらず、彼に関係するところでそれが実行されたか、そのどちらかだ。
いずれにせよ、今ここで追求しても無意味だと判断したルーガットは、ダイアナを制した。
「ダイアナ、コヤツを叩いても何も出てこんよ。明日、叩きのめすのが一番利口だ」
ただ、そのためには、ローカンの代わりの剣闘士を急いで探さねばならない。
「……そうよね。叩きのめせば良いのよ。そうすればあの子もきっと……」
ダイアナは、歪んだ表情でシェルクを睨みつけた。その瞳には、暗く、固い決意の光が宿っていた。
■ ■ ■
バイレスリーヴ西/自害岬【視点:世界(観測者)】
時はわずかに遡り、演舞式前日の嵐の夜。
漆黒の雲が空を覆い尽くし、夜をさらに濃密な闇へと沈めていた。
稲妻が走るたびに、身投げ岬の突端に立つダンラの姿が、一瞬、白く、幻影のように浮かび上がる。
彼女の瞳は、《ラクリマ》によってすでに深海の色に染まり、口元には、狂気とも恍惚ともつかない乾いた笑みが浮かんでいた。その手には古びた巻物が握られ、肌は不自然なほどに蒼白で、血管が青く浮き上がっている。
雷鳴が轟き、滝のような雨が降り注ぐ中、ダンラは書物に記載された古の儀式を執り行い始めた。
彼女の歌う呪文は、人間の言葉とは思えないほど低く、喉の奥から絞り出すような不気味な響きを伴っていた。その声は、雨音と嵐の轟音に吸い込まれ、不穏なざわめきとなって岬全体を包み込む。
彼女は、震える手で懐から短剣を取り出した。
その刃は、稲妻の閃光を鈍く反射し、まるで怪物の牙のように不気味に輝いていた。
彼女の視線は、一点を見据えている。それは、海の彼方、古文書に記された「外海の果ての暗い場所」──深海神が封印されているとされる場所だ。
「……おお、ルヌラよ……」
ダンラは、ためらいなく、自らの胸にナイフを突き立てた。
その瞬間、熱い液体が皮膚を破り、黒いローブを赤黒く染め上げる。降り注ぐ雨が血をすぐに洗い流していくが、彼女の傷口からは、稲妻の閃光に照らされて、まるで生きた蛇のように蠢く血流が、尽きることなく溢れ出していた。
痛みを感じているのか、それとも至福に浸っているのか、彼女の顔からは判別できない。ただ、その口元は依然として、狂気的な笑みを湛えていた。そして、その血が、冷たい岬の岩肌を滑り落ち、漆黒の海へと吸い込まれていく。
「そこに……いるのね」
ダンラは、ナイフを突き立てたまま、まるで恍惚とした夢を見るかのように、ゆっくりと、しかし確かな足取りで岬の縁へと進んだ。
「ようやく……会えた」
彼女の表情が途端に和らぐ。その表情は、まるで純粋な喜びに満ちた少女のようだった。
嵐の轟音だけが響く中、彼女の身体は重力に引かれるのではなく、崖から海へと吸い込まれるように落ちていった。
漆黒の海面に、小さな波紋が広がった。
ダンラの身体が海底に沈んでいく。
その瞬間、海は不気味な蒼の光を帯び、その光は遠い海に向かって稲妻のように走り去っていった。それはまるで、彼女の血と魂が、深海の神へと確実に届いたことを示すように。




