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S-18 「まずは、あれから殺そう」

バイレスリーヴ/潮風通り/高級宿、ビョーフラン【視点:ザーラムの刺客シェルク】


 決闘大会クレイヴァートまで、残すところあと二日。


 この部屋まで届く大通りの喧騒は、日が近づくにつれて容赦なく大きくなる。その下卑た騒音が、僕にとっては非常に不愉快だった。


 僕は苛立ちに耐えかね、ベッドに深く座り込み、シーツを頭からかぶってその音が少しでも耳に入らないよう強引に塞いだ。この苛立ちの原因は、外の喧騒だけではない。ワキールのあまりに回りくどいやり方に、僕は全く納得がいっていないのだ。


 僕たちの目的は明確だ。バージェス様の厳かな御命、すなわち、中心国家ザーラムの栄光をこの世界に広めるため、まずは東岸への足がかりとなるこの小国バイレスリーヴを手中に収めること。


 せっかく僕がエドワルドを手早く処理したというのに、ワキールはいまだこの国のくだらない決闘ごっこに付き合おうとしている。


 ワキールは、政治やら民衆の意向やら、「手順を踏む必要がある」だのと、ごちゃごちゃ理屈ばかり並べる。僕からすれば、邪魔立てする者は殺せばいい。ただそれだけだ。こんな簡単なことが何故わからないのだろう。


 作戦にあたり、バージェス様は僕に「ワキールの指示に従うよう」と告げられた。僕が主体となったほうが、圧倒的に早く済ませられるというのに……何故いつも僕のやり方を認めないんだ!


 僕は苛立ちを覚えながら、窓から侵入してきた羽虫を捕まえ、その細い足を一本一本引きちぎっては、窓の外に投げ捨てた。


 その時、窓の外の通りから、これまでにない、最も甲高く耳障りな声が響いてきた。僕の苛立ちは最高潮に達し、何事かと窓辺に駆け寄り、大通りを見下ろす。大通りには人だかりができており、その中心では、派手な衣装を着た興行団が、民衆に向かって曲芸を披露している。


(くだらない……本当に、いったい何が楽しいのか)


 僕は、心の中でつぶやき捨て、苛立ちを抑えながらその興行団を眺めていると、その中にある異質な人物を見つけた。


 その人物は、全身を黒いローブに纏い、ゆらゆらとまるでゴーストの様に揺らめきながら、大きな鎌を持って、仲間たちとともに寸劇《死神と王》を披露している。その顔は仮面でうかがい知ることはできないが、その異様な出で立ちは、他と間違えようがない。


 ルーガット陣営の剣闘士の一人、《奇術師ファイネ》。


 ワキールからの情報でその者のことは知っていた。実物を見るのは初めてだが、渡されたスケッチと目の前のそれは、まさに同一人物だ。


 そうだ。刈り取ればいい。誰にも、ワキールにさえも分からないように、敵陣営の剣闘士を、戦う前に、その命を刈り取ればいいのだ。


 さっきまで不快に感じていた通りの喧騒が、嘘のように気にならなくなり、心に巣食っていた苛立ちすら消えていた。計画を無視した、僕だけの静かな愉悦が満ちていく。


(まずは、あれから殺そう)


 僕は、心を安定させるための《青い丸薬》を一粒飲み、ベッドから立ち上がった。


 ■ ■ ■


 通りを騒がせていた興行団は、ついに退屈な寸劇を終えると、その場で解散となった。


 暗殺の標的、奇術師ファイネは、同じ興行団に所属する、小麦色の肌をした金髪の男としばらく行動を共にしたのち、影に溶け込むように裏通りに吸い込まれていく。


 奴がどのような人物で、どのように戦うのか。今のところ全く見えてこないが、僕にはもはや関係なかった。四肢の動きを司る箇所をこの細剣で突くことで、敵が動けなくなる。絶望を感じたところでとどめを刺す。あの羽虫のように。どんな相手でもそれは変わらない。


 僕は音もなく瓦屋根の上を歩きながら、襲撃のタイミングを計る。まだ昼だというのに、目下の通りは薄暗く静まり返っており、人けも感じられない。瓦屋根から、僕はまるで影が落ちるかのように、音を立てずに奴の真後ろへ降り立った。


 着地と同時に、右手の細剣を迷いなく突き出した。


 奴の両足の太腿――急所ではないが、四肢の動きを完全に封じる最適点――をローブの上から狙い定めた。一瞬で放たれた一撃は、二本の銀の線となり、奴の体を同時に貫いたはずだった。


 しかし、すぐに違和感を感じ、瞬時に間合いを取る。


 剣に肉を貫くはずの重く、確かな感触がない。ただ、虚空を打つような、乾いた虚無感が細剣の切っ先から掌へと伝わるだけだ。


 僕の視線は、開いた二つの穴ができたローブの布地を捉えた。穴の向こうには肉体がない。致命的な初撃が、まるで目の前の空間そのものを斬り裂いたかのように無効化された。僕の完璧な暗殺術が初めて通用しなかった瞬間だった。


(ありえない……どういう原理だ?)


 僕の初撃に一拍遅れて反応したファイネは、まるで浮遊しているかのように、静かに僕の方を振り返った。その全身を覆う黒いローブは、微かな風もないのにゆらゆらと揺らめいている。


(これは想定外……本当に、実体を持たないゴーストなのか?)


 細剣を構えたまま、僕は瞬時に戦術を練り直す。奴の大鎌は、この狭い裏通りでは確かに振り回せない。ならば、この地の利を活かす。


 躊躇はしない。僕は正面を突破することを選択し、あの異様な仮面の目の部分、わずかに覗く深部を貫くことに狙いを定めた。


 僕は石畳を蹴って即座に距離を詰めた。そして、狙いを定めたその左目に向かって、細剣を電光石火で突き出した。まさに剣先が奴の顔に届く直前だった――。


 予測不可能なタイミングで足元から突如、轟音とともに強烈な突風が巻き起こった。咄嗟に、僕は地面を滑るように身体を捻らせて回避する。


(《風凪魔法》か!?)


 冷や汗が背中に滲むのを無視し、僕は魔法の種類を瞬時に特定した。


(詠唱が聞こえなかった気がしたが…。だが、この規模の術を、この狭く淀んだ空間で連発はできまい!)


 僕は、体勢の立て直しに一瞬たりとも時間をかけず、石畳を蹴った。得意の接近術で再び距離を詰めようとした――。


「グルルルルッ……!」


 その瞬間、肌を粟立たせるような唸り声とともに、背後から全身を凍てつかせる強烈な殺意が叩きつけられた。


 反射的に、僕はファイネから意識を引き剥がし、身体だけを通りの角へと向けた。そこには、白銀の毛皮を纏った巨大な白狼の姿があった。


 それは、明らかに獣人、ライカンスロープ。前傾姿勢、両足で石畳を踏みしめるその巨体は、この裏通りを瞬時に支配していた。


(何故ライカンスロープがこのような場所に!?)


 僕の計算は、完全に崩壊した。人と獣人との物理戦闘は流石に旗色が悪すぎる。僕は、苛立ちを覚えながら地面を蹴って壁伝いに屋根へと上がり、即座に引き返していった。


 腹立たしい。


 想定外の出来事が重なった結果、暗殺は失敗した。


 奇術師ファイネ。奇妙な存在。仮面で表情は見えなかったが、僕の攻撃に動じていた様子は感じられなかった。死に対する恐怖を感じないのか。


 そんな事よりも、情けない逃走を余儀なくされた屈辱。この苛立ちは、冷徹な僕の精神をもってしても容易に抑えられるようなものではない。


(殺意の衝動を抑えなければ……)


 ■ ■ ■


 逃走のさなか、人気のない裏通りに耳障りな親子の声が響いた。


「父さん!なんで買ってくれなかったのさ!」


「金がないんだよ!でも大丈夫だ、決闘大会の賭けでお父さんの予想がしっかり的中するからな!そうしたら大金持ちだぞ!何でも買ってやる!」


「本当!?でも……賠率が高いからって……オリアンとかに賭けてないよね?」


「うっ……そ、そんなこと……ないぞ」


(……丁度いい)


 僕は、細剣の喉の渇きを潤すため、瓦屋根から男の前に静かに降り立った。


「んぁ?なんだアンタは?」


 間抜けな表情をした男。その反応も間抜けとしか言いようがない。


 僕の細剣は、瞬時にその男の四肢の動きを司る部分を貫き、悲鳴を上げながら崩れ落ちる瞬間、男の右目に細剣を突き立て即座に絶命させた。


「ひ……ひぃ!!父さんが!とうさ……」


 五月蝿い声を出そうとしていた子供は、四肢を破壊するまでもない。一撃で頭を貫いて殺した。


 剣先についた滴る赤い血を鋭く一振りして振り払う。その冷たい血の感触と共に、苛立ちは徐々に収まりつつあった。

 だが、こんな取るに足らないカス共の血では、決して満足できない。僕の真の渇きは、敵陣営の剣闘士の命でしか潤されない。必ず、奴らを殺す。そして、必ず結果を出して、バージェス様に僕のやり方が最も速く、最も優れていると認めさせてやる。


 西の空に、鉛色の黒い雲が不気味に広がり始めていた。海から吹きつける風は、裏通りを鋭く通り抜け、その勢いを増している。


(今夜は嵐か。しかし、僕の仕事には好都合だ)


 僕は、最初の獲物こそ逃したが、その代わりに別の標的を探すべく、音もなくバイレスリーヴの深まりゆく闇へと溶け込んだ。

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