S-174 「――おかえりなさい」
拝啓
今日も、この国は平和です。
窓の外には、かつて貴女と共に見上げたあの空と同じ、穏やかな青が広がっています。
君が去ってからのことを書きます。
あの激闘の後、帝国と王国は、両国の王が海へと散ったこと、そして全ての元凶であった「血の間」の支配が崩壊したことで、停戦協定を結びました。両国ともあまりに多くのものを失いました。
帝国では、暫定的にゲアラハが皇帝に就任。補佐役にはオルタが就き、万騎、千弓、百影の将軍職には、それぞれ生き残ったジーナ、ティナ、ウィスカの三名が就任しました。彼女たちは傷つきながらも、国を支える柱として立っています。
王国では、聾唖の王子レグルスが新たな国王となり、私達と共に戦った仲間たちがその脇を固めています。グリンネルは近衛隊長として剣を振るい、大魔術師ザラストラの名を襲名したキノルが、軍師長として国政を導いています。
大国は体裁こそ整えていますが、その内実は深く傷ついています。向こう何十年、剣を交えることなどできないでしょう。
また、ザーラム共和国は、悪魔が皮をかぶっていた執政官バージェスの死亡により、元の諸王国へと分裂し、混沌をきわめています。その中でも、我が同盟国サフラヒルは、その優秀な宰相と臣下達により存在感を示しています。
そして……戦禍は、この街からも無くてはならない人を奪いました。
バイレスリーヴ議会議員にして衛士長官。そして何より、私達「黒き監視団」の偉大なる頭目、ディナリエルを、あの内海戦で失いました。
この喪失はあまりに大きく、この国が、そして私たちが、如何に彼女という「影」に守られていたかという現実を、痛いほどに突きつけられています。彼女の遺志を継ぐため、組織も変わりました。
商業者組合の若頭であり、黒き監視団の一員だったノエルが、ディナリエルの後を継ぎ、新たな「常闇の影」となりました。
また、ルガルフと、彼の幼馴染であるクーカという女性が、巨大海門戦で散ったゼクとミセイラの穴を埋めるため、南支部へと異動しました。
激しい戦火を生き抜いた二人の変化は著しく、特にノエルは……変わりました。かつての脆さは消え、その瞳には、何かを守り抜くための冷徹な鋼が宿っています。
なお、今回の大戦は、血の間とライカンスロープの里の事件が遠因となったため、巷の歴史家たちの間では『血狼戦争』と呼ばれ始めています。私はといえば、相変わらずです。
この国の元首として、膨大な執務に忙殺されながら、こうして性懲りもなく、届く宛のない手紙を書いています。
ただ、やはり……。
君が去ってから、私の心の核たる部分がごっそりと抜け落ちてしまったようで、いまだにその穴が埋まる気配はありません。
君は……海に帰ってしまったのですか。
何も言わず……あの時の、私の問いへの答えも言わず。
また書きます。
君はきっと、海のどこかでこの手紙を読んでいてくれると信じて。
■ ■ ■
「オリアン様。ダマン村からご挨拶の方がお見えです」
執務室の扉の向こうから、使用人の遠慮がちな声が響いた。オリアンはハッと我に返り、書きかけの手紙を丁寧に折りたたむと、胸元のポケットへ大切にしまった。
「はい、すぐにいきます!」
鏡に映る自分の顔を作る。そこにあるのは、憂いを帯びた青年ではなく、国を背負う元首の顔だ。
■ ■ ■
ダマン村からの懐かしい顔を見て、少し元気が湧いた僕は、気分転換に一人、街なかの視察に出ることにした。
石畳を踏みしめるたび、すれ違う市民たちから視線が注がれる。
かつて僕に向けられていた侮蔑や嘲笑は、もうどこにもない。「おはようございます」「ご苦労さまです」……投げかけられる言葉には、温かな親愛の情が込められているのを肌で感じる。
巨大海門での陣頭指揮。あの日以来、僕を見る目は変わった。それまで距離を感じていた荒くれ者の冒険者達からも、酒場ですれ違うたびに「英雄元首!」などと、背中が痒くなるような二つ名で呼ばれ、杯を交わすようになった。
僕はそのまま、足繁く通う場所へと向かった。海を見下ろす丘にある、戦没者墓地。あの日以来、墓参りは欠かしていない。
「……また来たの。律儀な子ね」
声をかけてきたのは、ダイアナだった。花を手向け、静かに手を合わせる彼女の横顔には、かつての刺々しさはない。今では彼女も、すっかり僕を「同志」として認めてくれている。
僕は彼女としばし語らい、亡き友たちの思い出を共有してから、潮風通りを下った。
街の中心、噴水広場。
僕は足を止め、広場の壁面に描かれた巨大な壁画を見上げた。
記憶が朧気だが、この絵の大部分を占める、波間に揺蕩う巨大な女神の姿。
これは、きっと君だったのだと思う。僕は、ずっと、密かに、深海神ルヌラを崇めていた。
臆病な僕に勇気をくれる、唯一の信仰。だから、その願いが叶って、神様は「君」として、僕のところに来てくれたんだ。
胸のポケットの上から、手紙の感触を確かめる。彼女と過ごした日々が、極彩色の記憶として蘇る。どんな時も励ましてくれる声、美味しそうに食事をする顔、戦場での凛とした背中。
もう一度一緒に話し、笑い、触れて、踊りたい。
彼女無しの世界は、まるで色彩を失ったモノクロームの絵画のように見えてしまうのだ。
■■■
日が昇り、10時に差し掛かる頃。僕は港通りへと足を運んでいた。
「よぉ元首!今日はシケてらぁ!」
「いい女でも待ってるんですかい?」
船乗り達からいい意味で揶揄われ、挨拶も程々に、僕は人けのない突堤の先端へと向かった。潮風が強く吹き付け、ローブの裾をバタバタと揺らす。
僕は懐から、小瓶を取り出した。中には、書き溜めた手紙が詰め込まれている。コルク栓をきつく閉め、祈りを込めて振りかぶる。
「……届けッ!」
ポチャン……。
波間に落ちた小瓶が、遠くで淋しげな音を立てた。ここは内海。彼女が帰っていったのは、遥か遠くの外海。
それでも、この海は繋がっている。いつか、潮の流れに乗って、彼女の元へ届くと信じている。
僕はしばらくの間、小瓶が見えなくなるまで、蒼い水平線を見つめていた。
……その時だった。
ふわりと、潮風とは違う、懐かしい風が僕の頬を撫でた気がした。
それは、古い書物の匂いと、甘い葡萄酒の香りを孕んだ、あの日々を思い出させる風。
「……っ」
僕は息を吞み、周囲を見渡す。突堤には誰もいない。カモメが鳴き、波が打ち寄せるだけだ。
だが、僕の心臓は早鐘を打ち、全身の血が熱く脈打っていた。
気配がする。目の前の海からでも、空からでもない。僕の背後。この街の、この空気の中に。
(まさか……)
賑やかな少女の笑い声が、風に乗って聞こえた気がした。皮肉屋な少年の呆れたような溜息が、鼓膜を掠めた気がした。
幻聴かもしれない。あまりに強く願いすぎた僕が見ている、白昼夢かもしれない。
それでも。
僕のなかのナニカが……僕の魂が、告げている。
そこに、いると。
僕はゆっくりと振り返ろうとして――止めた。
今、振り返れば、その幻は消えてしまうかもしれない。けれど、この確信だけは、何者にも消せはしない。
彼らは帰ってきたのだ。僕の元へ。このバイレスリーヴへ。
僕は海に向かったまま、震える唇を噛みしめ、そして万感の思いを込めて微笑んだ。
目には見えなくても、声が聞こえなくても、僕には分かる。すぐ後ろに、愛おしい蒼と、懐かしい黒が並んで立っていることが。
「――おかえりなさい」
僕の呟きは、波音に溶けて消えた。けれど、その言葉に応えるように、背後でふわりと、優しい風が僕を包み込んだ気がした。
終わり
【あとがき】
◆【溟海のイル(通称)】に最後までお付き合いいただきありがとうございました。これをもちまして、この物語は一旦幕を閉じます。
この小説は、今から筆者が8年ほど前から構想を練っていた「かろうじて小説と呼べる代物たち」を一つにまとめ、自分の「好き」をごった煮させた物語です。
拙文を世に出すなんて考えもしていませんでしたが、人生のある転機において、「人がいなくなった後に、何か印となるようなものを残したい」という考えに至った結果、投稿させていただいた次第です。
◆小説では語り切れないほどに、各キャラに思い入れがあるため、ストーリーの中では書ききれなかった部分については、本編のキャラクターを主人公とした別の小説も投稿しておりますので、是非ともご覧ください。




