S-173 「帰ってしまったのですか」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】
古の神の咆哮は、破壊の合図ではなく、終焉の鐘だった。
彼女の身体から噴き上がった蒼い光の柱が、天を衝き、世界を閉ざしていた厚い暗雲を物理的に散らしていく。雷雨は一瞬にして止み、宇宙さえもが深海の色へと染め上げられた。
そして、その光の中で、神の巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
ズズズズ……。
粘液の巨神は、形を保てなくなり、大量の霧となって拡散していく。
霧が晴れる頃には、海神ネプテーノスを含む眷属たちの姿も、橋の上から綺麗に消え失せていた。
それだけではない。グリンネル、キノル、そしてバイレスリーヴの冒険者たち、黒き帆船の乗員たち、帝国の兵士たち。彼らの瞳に宿っていた全ての「蒼の光」が、潮が引くように彼らの肉体から抜け出した。
無数の光の粒子は、一つの巨大な「蒼い波」となって、外海――彼らが来た場所へと引いていった。
後には、嘘のように澄み渡った青空と、穏やかな凪だけが残された。
「……っ、う……?」
悪夢に支配されていた者たちが、呻き声を上げて目を覚ます。彼らは夢を見ていたわけではない。身体中の筋肉が悲鳴を上げ、手には刃こぼれした武器が握られている。直前の記憶――神の意志に同調し、無敵の力を振るった感覚――が、生々しい感触として手繰り寄せられる。
「俺たちは……勝ったのか……?」
戦場を見渡せば、そこには累積する両軍の死体の山。特に、あれほどの大軍を誇り、圧倒的優位にあったザーラム軍は、壊滅状態といってよかった。逃げ延びた者はわずか。残りは全て、蒼き狂乱の嵐に飲み込まれ、海へと沈んだのだ。
バイレスリーヴ王国とゼーデン帝国の連合軍は、歴戦の勇者たちの尊い犠牲の上に、侵略者の侵攻を見事に防ぎ切った。
これは記憶の改変ではない。たとえ蒼き神に支配された結果だとしても、彼らが血肉を賭け、命を燃やして勝ち取った勝利であることに変わりはない。
――目には目を。理不尽には、私を。
かつて、彼女はそう言った。世界が理不尽な暴力で襲ってくるなら、それ以上の理不尽で叩き潰してやる、と。
彼女は、その言葉通り、この戦争という巨大な理不尽を、神の力という更なる理不尽で払い除けてみせたのだ。
「救護班!!彼女たちを運んで!!急いで!!」
静寂を取り戻した戦場に、聖女ウィクトリアの凛とした声が響いた。巨大海門の東詰め、安全圏で待機していた彼女が、白衣を翻して駆けつけてくる。
「こっちは重傷だ!手を貸せ!」
生き残った正気の冒険者たちが、糸が切れた様に崩れ落ちたジーナとウィスカを運び出す。二人の身体は冷たく、息も絶え絶えだが、まだ心臓は動いている。
「はぁ……はぁ……」
橋の石床に、満身創痍のルガルフが膝をついていた。理性を手放さずに済んだものの、精神の消耗は激しく、全身の毛皮が血と泥で固まっている。夕暮れの光が、彼の巨大な影を石畳に長く伸ばしていた。
そこへ、もう一つの影が重なる。華奢な、獣人の少女の影。二つの影は震え、やがて一つに溶け合った。
「……懐かしい匂いがしたと思ったら」
ルガルフが顔を上げる。そこには、少し大人びた、けれど変わらない瞳をしたクーカが立っていた。彼女は何も言わず、ただ傷だらけのルガルフに手を差し伸べた。
「…………この戦い……儂が一生かかっても描けそうにない」
巨大海門の戦いの記録を後世へと残すため、巨像の右肩から戦況を目に焼き付けていたビウォールが唸った。
「……私が手伝いましょうか。やることが無くなりました。手先の器用さには多少覚えがあります」
巨像の反対の方から、彼の独り言に応える声があった。
一方、その喧騒の中で、オリアン・ワードベックは走っていた。
「そこの瓦礫を退かして!負傷者を優先的に搬送するんだ!」
「水を!清潔な布もです!」
総大将として、そして一人の人間として。彼は泥にまみれながら、兵士たちと共に瓦礫を運び、生存者の救助に奔走していた。だが、その視線は、絶えず誰かを探して彷徨っていた。
どこにもいない。橋の上にも、瓦礫の下にも。あれほど強烈な存在感を放っていた彼女の気配が、完全に消え失せている。
オリアンはふと、足を止めた。彼の視線の先には、どこまでも広がる蒼い海があった。さきほど、巨大な光の波が帰っていった場所。
波音だけが、優しく響いている。
「……帰って、しまったのですか」
オリアンは、海風に髪を揺らしながら呟いた。その声には、勝利の喜びよりも深い、喪失の響きが混じっていた。




