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S-171 「構わない!!君が……助かるなら!!」

 バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:イルの内面世界】


 神の圧倒的な質量に押しつぶされ、イルという個我は、暗い海の底へと沈んでいく。


(……もう、いいかな)


 抵抗しても無駄だ。これは神……いや、それ以上の存在。対して私は……ただの、たまたま選ばれただけの空っぽの器。意識の灯火が、フッと消えかけた。


『イルッ!!僕を使え!!』


 ふと、胸の奥で誰かの叫びが響いた。三年間、片時も離れず、私の内側から世界を見ていた伴侶――ルトの声だ。


『刻世魔法が練り込んである!!時間に、奴に抗えるはずだ!!』


 直後、私の中に温かい奔流が流れ込んできた。それは、ルトの魂が燃え尽きることで生まれた、最期の灯火だった。


『ルト、何を燃やしてるの?キミの魂が燃えてなくなっちゃう!!』


 私の心の叫びに、彼は迷いなく答えた。


『――構わない!!君が……助かるなら!!』


 彼は本気だ。私を生かすために。自分が消えるために。

 それが、引き金となった。


「そんなの却下に決まってる!!」


 私は即答した。消えかけた灯火が、怒りで爆ぜた。


(私は、消えない!!ルトに、まだ何も返していない!勝手に終わらせてたまるかッ!!)


 抗う意識。

 それを、嘲笑うかのように押さえつけようとするイル・ヌラ。


『無駄ダ。諦メロ。オ前ハ我ガ一部ニ過ギナイ』


「違う……!」


 ルトが自分を犠牲にしてまで私に託してくれた、時間に抗う強力な魔力。この時間。決して無駄にしない!!

 泥のような深淵の中で、彼の魂が生み出した時間と推進力を使い、私はイル・ヌラの重圧を強引に突破する。ルトのおかげで、輪郭が保てる。彼が背中を押してくれるから、進める。


「この身体は……私のものだ。手足の長さも、肺の大きさも、心臓の鼓動のリズムも……私が一番よく知って、私が一番よく使えるんだ!!」


 イル・ヌラという巨大な濁流を、ルトの魔力が停止させ、私が切り裂いていく。私はその切れ目を縫って、さらに深く、暗い底へと潜った。

 そこは悠久の時、深海神さえもが座すことのできない、魂の深層領域。私一人では、水圧に押し潰されて決して届かなかった場所だ。


 ――消えゆくルトが最期に残してくれた紫色の灯りが、深海の闇を照らし出した。その光を頼りに、虚無の彼方にある「真実」を探した。


『ククッ……。何ヲ探ス?絶望シカナイ虚無ノ底デ』


 イル・ヌラの嘲笑が響く。だが、ルトの燃え残った光が指し示した先に、それはあった。


(こんなところに……いた)


 それは、一粒の星のような、あるいは涙のような結晶だった。この星の始まりから終わりまで、あらゆる事象を記録し続ける《真理の欠片》。その透き通った輝きの中に――吸い込まれゆく、小さな影が見えた。


『ルトッ!!』


 彼はもう、個としての輪郭を保っていなかった。燃え尽きた彼の魂は、ただの「過去の記録」として、あるいは「歴史の一部」として、その真理という名のアーカイブに溶け込み、同化しようとしていた。このまま数秒もすれば、彼は「ルトハール」という人格を失い、世界の記憶の1ページになってしまう。


(ふざけるな)


 歴史になんて、させてたまるか。私の指先は、迷いなく彼方へ伸びた。

 神の力ではない。魔力ですらない。これは、私の「意志エゴ」という名の腕だ。

 私は、消え入りそうな彼の魂と彼を飲み込もうとしている《真理の欠片》そのものを、鷲掴みにした。


 ズシリ、と魂が軋むほどの重さが伝わる。世界の記録そのものを引き剥がすような暴挙。けれど、私はその結晶ごと、中にいる彼を力任せに引き寄せた。過去になんてさせない。あんたがいるべき場所は、記録の中じゃない。私の隣だ。

 私は、腕の中で震えるその「光」に向かって、魂の底から叫んだ。


「私を置いて……勝手に消えるな!陰キャゴースト!!」


 カッ……!


 視界が弾けた。流れ込んでくるのは、膨大な情報の奔流。視える。時間が。歴史が。ルトが命を賭して繋いでくれたから、今、私は世界のすべてを視ている。


 ■ ■ ■


 ――1400年前の光景。崩壊した王都。海はそこまで迫っている。青年バルロフは弟の処刑を指揮した。その表情……。彼は、泣いていた。顔をくしゃくしゃに歪め、悲鳴のような声を上げながら、愛する弟ルト。狂った手記を書いた少年の精神は蝕まれていた。『許してくれ、ルト。こうするしか……お前を、世界を救うには……!』


 ――血の系譜。ルトは死んだ。だが、その血は絶えていなかった。ルトの傍系、あるいは生き延びた隠し子か。その血脈は細く、しかし途切れることなく歴史の闇を流れ続け、現代へと至る。そして、その終着点にいるのが――オリアン・ワードベック。彼の瞳に宿る蒼い炎は、ルトの妄執と優しさの残滓。


 視界がさらに広がる。惑星を超え、概念の彼方へ。――人知の平原。人々が「ウニヴェリアの神々」と崇める存在たち。彼らは神ではない。強大な力を持った、ただの「上位存在」。この星の裏から染み出た精神生命体が、神の座に居座っただけの姿。


 ――視える宇宙。懐かしい感覚。無数の星々が瞬く、真空の海。そこには、今は消失した「星の存在」がいた。イル・ヌラはこれだ。


 なんだ。オマエなんて、たいしたことない。ルトが命を懸けてまで恐れるほどのものじゃない。


 ドクンッ!!


 魂の奥底から、イデアが噴水のように湧き出した。それはイルヌラの支配を内側から焼き尽くす、極彩色の光。


『ナ……!?バカナ、何ダ、コノ光ハ!?』


 イル・ヌラの思考に、初めて焦燥の色が混じる。神である自分が、器であるはずのワタシ(小娘)に「喰われそうになっている」という恐怖。『貴様……何者ダ!?』

 ルトがくれた時間で、私は全てを理解した。なぜ自分がルヌラの器として適合したのか。なぜ自分だけがイデアを正しく理解できたのか。そして、なぜ、消失しかけたルトを救えるのか。


「……視えた」


 唇が、静かに動く。


「私は……」

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