S-170 「もう終わりだよ。この世界は」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】
イル・ヌラの裂けた顔が、ニタリと笑うように歪んだ。バッコルを葬り去ったその深淵の瞳が、次はバルロフを捉える。
直視の宣告と共に、イルヌラの前面に控える海神ネプテーノスが、再びその凶悪な三叉鉾を構えた。イルヌラは、自ら執行するまでもないと判断したのか。
逃げ場はない。送還魔術も通じない。バルロフは死を覚悟し、雨空を仰いでその赤い瞳を閉じた。
その時だった。
「グルルァァァッ!!」
黒い疾風が、バルロフの身体を横合いから掠め取った。ネプテーノスの突きが、紙一重で空を切る。疾風はそのまま橋の欄干を蹴り、瓦礫の山を飛び越え、イルヌラの射程外へと着地した。
「……ッ?」
バルロフが目を開ける。彼を抱えていたのは、艶やかな漆黒の毛並みを持つ、巨大な狼のような獣だった。獣はバルロフを背から降ろすと、その姿を収縮させ、獣耳と尻尾を持つ少女の姿へと戻る。
クーカ・ジグリフ。
「ごめん、遅れて」
彼女は肩で息をしながら、雨に濡れて張り付いた髪をかき上げた。
「はは。もう終わりだよ。この世界は」
「みんな、狂ってる」
クーカは短く吐き捨て、橋の中央へ視線をやった。そこでは、契りを結んだはずのグリンネルやキノルが、虚ろな蒼い瞳でイル・ヌラを崇拝し、近づくものを排除しようと武器を構えている。
二人は、橋の上に立ち並ぶ異形の神々と、その背後に蠢く深蒼のオーラから距離を取り、橋の端へと退避した。
「……無駄なあがき……だったのかもしれないな」
バルロフは力なく笑い、雨に濡れた自身の空っぽの両手を見つめた。
「正直、私の見立ては完全に崩壊した。私は、この時代の勇者と大魔術師ザラストラ……そして君という心強い味方を得て、1400年の時を経て腐りきったバッコルまでも利用し……今度こそイル・ヌラを打ち滅ぼそうとしていた」
「…………」
「だが、見ての通りだ。バッコルは塵一つ残さず消滅させられた。ウニヴェリアの神がだ。……もはや、あれを倒す手立てがない」
バルロフは、圧倒的な絶望を前にして、糸が切れたように泥濘んだ地面へ座り込んだ。
「あぁ、馬鹿だ。本当にばかげている。1400年もの間、復讐と使命のためだけに生きてきたというのに、結末がこれとはな」
彼は、暗雲に覆われた空を見上げる。
「いっそのこと、抵抗などやめて、私たちもあの光を受け入れ、狂ってしまったほうが安寧が得られるとすら思っているよ」
その言葉を聞いたクーカは、あきれ果てたようにため息をついた。
「……なにそれ。ばかみたい」
「返す言葉も無いね」
「散々『私が黒幕です』みたいな顔して暗躍しといて。したり顔で私たちに絡んできたくせに、ちょっと計算外のことが起きたらもう諦めるわけ?」
クーカはバルロフを見下ろし、鼻で笑った。
「あんた、ダサすぎ」
その直球すぎる罵倒に、バルロフは目を丸くし、やがて苦笑を漏らした。
「……ふふっ。手厳しいな」
彼はゆっくりと立ち上がり、濡れたマントを払った。
「もはや……何も言えないな。君の言う通りだ」
その時。彼らの頭上で、世界が割れるような音が響いた。
「……?」
クーカが空を指差す。イル・ヌラの身体から噴き上がった光の柱が、天を衝き、厚い暗雲を散らし、宇宙さえも蒼く染め上げていく。
ヌヲヲヲヲヲヲヲォォ……
そして、その光の中で、イル・ヌラの咆哮が轟いた。
『視エタ……。私ハ……』
神の覚醒。だが、その声色には、先ほどまでの冷徹な神威とは異なる、確固たる「個」の意志が混ざり始めていた。




