S-166 「受け入れよ。この心地よい沈溺を」
内海/ザーラム・バイレスリーヴ間航路【視点:世界(観測者)】
時間は少し遡る
ザーラム共和国が誇る無敵艦隊。その栄光は、内海の藻屑と消えた。
数刻前まで、戦況はザーラムの圧倒的優位にあった。数で勝るザーラム艦隊は、バイレスリーヴの混成船団を包囲し、徐々に、しかし確実に締め上げていた。
海運ギルド会長ユーラハンの神がかり的な操舵と、大戦士ファルクレオの奮戦があろうとも、物量の差は覆しがたい絶望としてそこにあった。
だが。遥か南方、巨大海門の方角から、顔良を水に溶いたような暗雲が押し寄せた瞬間――世界は一変した。
「ルヌラ……ルヌラ……イル・ヌラ……」
雨に打たれるバイレスリーヴの各船から、低い地鳴りのような合唱が響き始めた。死を覚悟していたはずの船員たちの瞳に、一斉に底知れぬ「蒼」が宿る。
そして、その狂信の中心となったのが、古代の遺物《黒き帆船》である。
甲板の中央。先ほどまで船酔いで青ざめていた街の本屋――大魔術師ニーネッドが、ゆらりと立ち上がっていた。
叩きつける雨が彼のモノクルを濡らすが、彼は気にする素振りもない。彼の瞳孔は開き、その目は深海のような濃紺の光に輝いていた。
だが、その表情はあまりに穏やかで、理知的ですらあった。彼は、自身の精神が塗り替えられていく感覚を、まるで難解な術式が完成した時のような恍惚とともに受け入れていた。
「……私は、抗うべきではなかったのだ」
ニーネッドは、震える手で自身の顔を覆い、指の隙間から蒼い光を漏らしながら独白する。
「疑念の余地など、最初からなかった。知識の深淵、魔法の極致……私が追い求めた全ての答えは、この『蒼』の中にあったのだから」
彼は、周囲で狂乱する船員たちを見渡す。そこにあるのは軽蔑ではない。真理に到達した同志への、深い共感だった。
「初めから……受け入れていればよかったのだ。この心地よい沈溺を」
ニーネッドが両手を掲げると、その身体がふわりと浮き上がった。彼自身が、巨大な船体と一体化し、神の意志を代行する「核」となる。
「――『蒼天の裁き(ケラウノス・アズール)』」
ニーネッドが、雨と涙で顔を濡らしながら腕を振り下ろした。それは悲しみの涙ではない。あまりに巨大な存在に触れた、感動の涙だった。
カッ!!
船首から、極太の蒼い稲妻が水平に迸る。それは雨雲が呼ぶ自然の雷をも巻き込んで枝分かれし、海面を舐めるように走り、ザーラムの艦船だけを正確に捕捉した。
「な、なんだこの光は……!?舵が効か……ギャアァァァッ!!」
着弾。
ただ、蒼い光に包まれた船が、次の瞬間には青白い炎を上げて燃え上がる。豪雨の中でも消えぬ魔火。
甲板にいた兵士たちは、熱さを感じる暇もなかっただろう。彼らは糸が切れた操り人形のように、バタバタと濡れた甲板に倒れ伏し、あるいは海へと滑り落ちていく。その魂を、瞬時に刈り取られたかのように。
ニーネッドが指を振るうたび、海面が蒼く発光し、ザーラムの船が沈黙していく。反撃など許されない。これは戦闘ではない。世紀の大魔術師ザラストラによる一方的な「粛清」だった。
■ ■ ■
数分後。海を埋め尽くしていたザーラムの艦隊は、その全てが沈没するか、漂流する火だるまの棺桶と化していた。
「……素晴らしい」
ニーネッドは甲板に降り立つと、まだ燻る煙の向こう、雷光が走る東の空をうっとりと見つめた。伝説の大魔術師と呼ばれたその男の理性は、今や深海の底で永遠の眠りについていた。残っているのは、神の威光を振るうことに至上の喜びを見出す、一人の狂信者だけ。
「……行くぞ。次へ。主が待っておられる」
彼らが描く不可解な航路の先。そこは、未だ決着のつかないもう一つの戦場。帝国と王国の海戦のただ中。
ズズズ……。
突如、海面から、湿った濃霧が湧き上がった。それは気象現象ではない。豪雨さえも遮る、神の領域と現世を隔てる境界の帳。霧は瞬く間に視界を覆い尽くし、世界を白濁した闇へと閉ざしていく。
バイレスリーヴの船団は、その異様な霧の中へと音もなく滑り込み、一隻、また一隻と姿を消していく。まるで、最初から幻影であったかのように。
船団が消えた後には、暗雲は嘘のように消え、蒼く、どこまでも静かに狂気を孕んで凪いだ海だけが残されていた。




