S-165 「殺セ……捧ゲヨ……」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】
イル――いや、器の主導権を完全に掌握した《イル・ヌラ》は、ただ静かに佇んでいた。その肢体から溢れ出す蒼い光は、もはや隠そうともしない「神威」となって周囲を圧する。
彼女が虚空を見つめ、瞬きを一つした、その時だった。
カッ……!
彼女の黄金の瞳が、深海の色に染まり、強烈に発光した。その光は物理的な波長となって彼方まで拡散し、闘技場で、あるいは街中で、彼女と一度でも関わりを持った者たちの網膜を焼き付けた。
「……あ」
グリンネルが、剣を降ろした。キノルが、杖を握りしめたまま硬直する。瀕死のジーナが、ルガルフが、ウィスカが。そして、遠く離れた内海の船上で戦うユーラハンやスノゥシャまでもが。
彼らの瞳から理性の光が消え、代わりに底知れぬ「蒼」が宿る。
「……ル”ヌラ」
誰かが呟いた。それは伝染病のように広がり、熱狂的な合唱へと変わっていく。
「ル”ヌラ……ルヌラ!イルヌラ!!イル”・ヌラァァァ!!!」
彼らの口元がだらしなく開き、そこから濡れた小さな触手が、舌の代わりに這い出して蠢いた。
「なにッ!!今ので完全に……君たちまで!?」
バルロフが戦慄する。彼が「勇者」と見込んだグリンネルたちまでもが、一瞬にしてイル・ヌラの眷属へと堕とされたのだ。
倒れ伏していた兵士たちもが、蒼い光に包まれる。
ゴキッ……ズヌヌ……
その体の傷が瞬く間に修復され、糸に引っ張られるように起き上がり、折れた剣を拾い上げた。
「イル・ヌラ!!……あ”ぁ”、僕の神よ”!」
オリアンが、恍惚の表情で叫んだ。
彼の瞳は、かつてないほどの輝きに満ちている。恐怖も、迷いもない。そこにあるのは、ただ純粋な信仰だけ。
「捧げよ!命を!魂を!全てを蒼へ還すんだ!!」
オリアンの号令一下。蒼に染められた軍勢が、一斉にバッコルとバルロフへ牙を剥いた。
「……くッ」
バルロフの細剣が迷う。彼らは守るべき人間であり、共に戦うはずの仲間だった者たちだ。その躊躇いが、彼の剣速を鈍らせる。
「ははは!!狂気じゃ!心地よいのう!あの時の狂気が再びじゃ!!」
対照的に、バッコルは歓喜の声を上げた。彼は襲いかかる「玩具」たちを、巨大な腕で薙ぎ払う。肉が弾け、骨が砕ける。だが、蒼に染まった者たちは痛みを感じないのか、欠損した身体は直ぐに修復され、狂気の笑顔で食らいついてくる。
「全員、殺すしかないのか……!」
バルロフが覚悟を決めて剣を構えた瞬間。
シュゥゥゥゥ……。
イル・ヌラの足元から、濃密な霧が噴き出した。それは瞬く間に橋の上を覆い尽くし、蒼の軍勢を包み込む。視界が遮られ、気配が乱れる。
「逃がすかァ!!」
バッコルが翼を羽ばたかせ、霧を吹き飛ばそうとする。だが、霧が晴れた時――そこには誰もいなかった。オリアンも、グリンネルも、死体さえも。すべてが消失していた。
「どこへ行った!?」
バルロフが周囲を見渡す。その時、足元の巨大海門が、悲鳴を上げるように軋んだ。
ズズズズズズズ……。
橋の下。荒れ狂う海面が盛り上がる。それは波ではない。海水そのものが凝縮し、形を成した「蒼き巨神」。
橋脚よりも巨大なその顔が、海面からずいと現れ、橋の上にいるバッコルたちを見下ろした。その身体は海と一体化し、不定形でありながら圧倒的な質量を持っている。
「……まさか」
バルロフの目が、橋の反対側――ザーラム軍が布陣する西側関所の方角を向く。
そこにもまた、突如として濃霧が湧き上がっていた。
「な、なんだ!?この霧は……」
ザーラム兵たちが困惑する中、霧の奥から、ゆらりと「彼ら」が現れた。
先ほどまで橋の上で戦っていた、バイレスリーヴ陣営の戦士たち。だが、その姿は異様だった。全身から蒼いオーラを立ち上らせ、口からは触手を垂らし、目は深海の色に染まっている。
「殺セ……捧ゲヨ……」
「ヒッ、あ、あいつら、様子が……」
ザーラム兵が悲鳴を上げる間もなく、殺戮が始まった。同時に、海面を漂っていた白い霧が、生き物のように空へと立ち上り、瞬く間にどす黒い暗雲となって天空を覆い尽くした。
バリバリ……ドガァァァン!!
天地がひっくり返ったような雷鳴。天と地が暗い海に覆われるかのように、視界を閉ざしていく。叩きつけるような陰惨な豪雨と、絶え間なく落ちる落雷。その中で行われるのは、戦いではない。一方的な蹂躙だった。
人間としての限界を超えた身体能力と、痛みを知らぬ狂信。蒼に染まった冒険者たちは、泥濘に足を取られることもなく、数万の軍勢を屠っていく。
「バケモノだ……!助け……ギャアァァァッ!!」
雨音さえもかき消す断末魔が響き渡る中、巨大海門を上から覗き込むイル・ヌラ。かつて人々を魅了した美しい人間の面影は、もはやどこにもない。
そこにあるのは、暗い蒼一色に塗りつぶされた頭部。豪雨に打たれ、ぬらぬらと光る粘性のある蒼い海が人の形を模しているだけの、不気味な立像。その顔とおぼしき平面には、鼻も口もなく、ただ二つの眼だけが、深海の燐光のように冷たく光っていた。




