表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
167/176

S-165 「殺セ……捧ゲヨ……」

バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】


 イル――いや、器の主導権を完全に掌握した《イル・ヌラ》は、ただ静かに佇んでいた。その肢体から溢れ出す蒼い光は、もはや隠そうともしない「神威」となって周囲を圧する。


 彼女が虚空を見つめ、瞬きを一つした、その時だった。


 カッ……!


 彼女の黄金の瞳が、深海の色に染まり、強烈に発光した。その光は物理的な波長となって彼方まで拡散し、闘技場で、あるいは街中で、彼女と一度でも関わりを持った者たちの網膜を焼き付けた。


「……あ」


 グリンネルが、剣を降ろした。キノルが、杖を握りしめたまま硬直する。瀕死のジーナが、ルガルフが、ウィスカが。そして、遠く離れた内海の船上で戦うユーラハンやスノゥシャまでもが。


 彼らの瞳から理性の光が消え、代わりに底知れぬ「蒼」が宿る。


「……ル”ヌラ」


 誰かが呟いた。それは伝染病のように広がり、熱狂的な合唱へと変わっていく。


「ル”ヌラ……ルヌラ!イルヌラ!!イル”・ヌラァァァ!!!」


 彼らの口元がだらしなく開き、そこから濡れた小さな触手が、舌の代わりに這い出して蠢いた。


「なにッ!!今ので完全に……君たちまで!?」


 バルロフが戦慄する。彼が「勇者」と見込んだグリンネルたちまでもが、一瞬にしてイル・ヌラの眷属へと堕とされたのだ。


 倒れ伏していた兵士たちもが、蒼い光に包まれる。


 ゴキッ……ズヌヌ……


 その体の傷が瞬く間に修復され、糸に引っ張られるように起き上がり、折れた剣を拾い上げた。


「イル・ヌラ!!……あ”ぁ”、僕の神よ”!」


 オリアンが、恍惚の表情で叫んだ。


 彼の瞳は、かつてないほどの輝きに満ちている。恐怖も、迷いもない。そこにあるのは、ただ純粋な信仰だけ。


「捧げよ!命を!魂を!全てを蒼へ還すんだ!!」


 オリアンの号令一下。蒼に染められた軍勢が、一斉にバッコルとバルロフへ牙を剥いた。


「……くッ」


 バルロフの細剣が迷う。彼らは守るべき人間であり、共に戦うはずの仲間だった者たちだ。その躊躇いが、彼の剣速を鈍らせる。


「ははは!!狂気じゃ!心地よいのう!あの時の狂気が再びじゃ!!」


 対照的に、バッコルは歓喜の声を上げた。彼は襲いかかる「玩具」たちを、巨大な腕で薙ぎ払う。肉が弾け、骨が砕ける。だが、蒼に染まった者たちは痛みを感じないのか、欠損した身体は直ぐに修復され、狂気の笑顔で食らいついてくる。


「全員、殺すしかないのか……!」


 バルロフが覚悟を決めて剣を構えた瞬間。


 シュゥゥゥゥ……。


 イル・ヌラの足元から、濃密な霧が噴き出した。それは瞬く間に橋の上を覆い尽くし、蒼の軍勢を包み込む。視界が遮られ、気配が乱れる。


「逃がすかァ!!」


 バッコルが翼を羽ばたかせ、霧を吹き飛ばそうとする。だが、霧が晴れた時――そこには誰もいなかった。オリアンも、グリンネルも、死体さえも。すべてが消失していた。


「どこへ行った!?」


 バルロフが周囲を見渡す。その時、足元の巨大海門が、悲鳴を上げるように軋んだ。


 ズズズズズズズ……。


 橋の下。荒れ狂う海面が盛り上がる。それは波ではない。海水そのものが凝縮し、形を成した「蒼き巨神」。


 橋脚よりも巨大なその顔が、海面からずいと現れ、橋の上にいるバッコルたちを見下ろした。その身体は海と一体化し、不定形でありながら圧倒的な質量を持っている。


「……まさか」


 バルロフの目が、橋の反対側――ザーラム軍が布陣する西側関所の方角を向く。

 そこにもまた、突如として濃霧が湧き上がっていた。


「な、なんだ!?この霧は……」


 ザーラム兵たちが困惑する中、霧の奥から、ゆらりと「彼ら」が現れた。

 先ほどまで橋の上で戦っていた、バイレスリーヴ陣営の戦士たち。だが、その姿は異様だった。全身から蒼いオーラを立ち上らせ、口からは触手を垂らし、目は深海の色に染まっている。


「殺セ……捧ゲヨ……」


「ヒッ、あ、あいつら、様子が……」


 ザーラム兵が悲鳴を上げる間もなく、殺戮が始まった。同時に、海面を漂っていた白い霧が、生き物のように空へと立ち上り、瞬く間にどす黒い暗雲となって天空を覆い尽くした。


 バリバリ……ドガァァァン!!


 天地がひっくり返ったような雷鳴。天と地が暗い海に覆われるかのように、視界を閉ざしていく。叩きつけるような陰惨な豪雨と、絶え間なく落ちる落雷。その中で行われるのは、戦いではない。一方的な蹂躙だった。


 人間としての限界を超えた身体能力と、痛みを知らぬ狂信。蒼に染まった冒険者たちは、泥濘に足を取られることもなく、数万の軍勢を屠っていく。


「バケモノだ……!助け……ギャアァァァッ!!」


 雨音さえもかき消す断末魔が響き渡る中、巨大海門を上から覗き込むイル・ヌラ。かつて人々を魅了した美しい人間の面影は、もはやどこにもない。


 そこにあるのは、暗い蒼一色に塗りつぶされた頭部。豪雨に打たれ、ぬらぬらと光る粘性のある蒼い海が人の形を模しているだけの、不気味な立像。その顔とおぼしき平面には、鼻も口もなく、ただ二つの眼だけが、深海の燐光のように冷たく光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ