S-164 「イル、消えないでくれッ!!」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:幽霊王子ルト】
兄様の言葉が、僕の魂の防壁を粉々に砕いた。堰を切ったように、1400年前の記憶が、鮮烈な痛みとなって溢れ出す。
『……あぁ、そうだ。僕は……』
王都の広場。十字架に磔にされた僕降り注ぐ石つぶて。罵声。嘲笑。かつて僕たち王族を崇めていた国民たちが、その日は鬼の形相で僕たちを見ていた。
「魔女の子だ!」「災いを呼ぶ忌み子だ!」
違う。母様は、国を守ろうとしていたのに。魔術の研究も、禁術への接触も、すべてはこの国の繫栄と、民の安寧のためだったのに。
『僕はただ……国民の悪意を受けて、心が壊れてしまっただけなんだ』
処刑される恐怖よりも、裏切られた絶望が勝った。だから僕は、死の淵で願ってしまった。
『母様を……生き返らせたかっただけなんだ。そして、母様を殺したと言っていい……この恩知らずな屑どもに、仕返しをしてやりたかっただけなんだ!!』
その妄執が、呼び寄せてしまったのだ。深海に眠る、決して触れてはならない「蒼」を。
『――ナラバ……私ガ、助ケテヤロウ』
頭に直接響く、甘く、冷たく、絶対的な声。イルの口が勝手に動く。だが、それはイルの声ではない。
『オ前ノ望ミハ、全テ叶エタ。国ヲ沈メ、民ヲ根絶ヤシニシタ。……マダ足リヌカ?愛シ子ヨ』
『……イル・ヌラ……?』
『ソウダ。我ガ力ヲ受ケ入レヨ。再ビ、コノ穢レタ世界ヲ、浄化ノ蒼デ塗リ潰ソウ』
抗えない誘惑。僕の復讐心に、油を注ぐような甘美な提案。意識が、深淵の闇へと溶けていきそうになる。その時――。
「……違うッ!!」
イルの身体が激しく痙攣し、黄金の瞳がカッと見開かれた。彼女自身の意志が、内側から食い破るように叫んだ。
「お前じゃない……!ルトを助けるのは……私ッ!!」
イルが、自分自身の喉を掻きむしるようにして、深淵の声を遮る。彼女は、恐怖に震える僕の霊体を、内側から必死に抱きしめようとしていた。
「ルトは……絶対に渡さないから!!」
『……小賢シイ』
イル・ヌラの声が、底冷えする侮蔑を帯びた。
『器ノ分際デ……我ガ意志ニ逆ラウカ』
ズズズズズ……。イルの身体から、蒼い粘液のようなオーラが噴出し、彼女自身の輪郭を塗りつぶし始める。
『オ前ゴトキ、器ニ付着シタ「汚レ」ニ過ギヌ意思ガ。……永遠ニ消エヨ』
「う、ぅぐ……うあぁぁぁぁぁッ!!!」
イルが絶叫した。それは肉体の痛みではない。存在そのものを削り取られるような、魂の消滅の苦しみ。僕を包んでくれていた彼女の温かな「魔力」が、急速に冷たい深海の色に浸食され、消失していく。
(イルが……消える?)
その事実に直面した瞬間、僕の中で何かが弾けた。母様への思慕も、国への復讐心も、兄様への引け目も、すべてがどうでもよくなった。
ただ、失いたくない。この数ヶ月、文句を言い合い、馬鹿なことをしでかし、一緒に旅をしてきた、この「汚れ(かけがえのない彼女)」を。
「イル!!」
僕は、消え入りそうな彼女の意識に、必死に手を伸ばした。
「僕は……君がいいんだ!!イル・ヌラなんかじゃない!ただの『イル』でいてくれ!!」
「消えないでくれッ!!!」
僕の叫びは、轟音渦巻く戦場に、悲痛なほど小さく響いた。




