S-163 「久しぶりだな、ルトハール」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】
「なんじゃ。……まだらじゃな」
バッコルは、明滅を繰り返すイルを見下ろし、つまらなそうに鼻を鳴らした。彼女の身体は、人間の形と、ヴュールの姿の間を行き来し、安定していない。
「復活は不完全か?器が脆すぎるのか、それとも中身がまだ寝ぼけておるのか。……まあよい」
バッコルの背中の翼が大きく広がり、影を落とす。彼は巨大な手を伸ばし、抵抗できないイルの身体を鷲掴みにした。
「その力……この儂が、骨の髄まで啜り尽くして、我が糧としてやるのだからな」
ミシミシと音がする。魔神の握力が、イルの華奢な肢体を締め上げる。だが、イルは苦痛に顔を歪めるどころか、その黄金の瞳を細め、バッコルを真っ直ぐに見つめ返した。その口元が、耳まで裂けんばかりに吊り上がる。
「……怖イノ?」
鈴のような声ではない。深海の底で岩が擦れ合うような、重く、湿った響き。
「偽リノ神ヨ。……私ノ『飢エ』ガ、恐ロシイノ?」
「……あァ?」
バッコルが眉をひそめた、その瞬間。
ビュオゥッ!!!
凄まじい突風が巻き起こり、戦場を覆っていた濃霧を一瞬で吹き飛ばした。視界が開ける。風の中心には、杖を構えたキノルが立っていた。彼女の魔力によって生み出された局地的な暴風だ。
「イルッ!!」
風を切り裂き、炎の流星が走った。グリンネルだ。
「離せッ!!」
彼は全身全霊の力を込め、赤熱した魔剣を一閃させた。
ザンッ!!
「ぬぉっ!?」
バッコルの右腕――イルを握りしめていた腕が、手首から先ごと切断され、石畳に落ちた。拘束を解かれたイルが、受身も取らずに地面へ崩れ落ちる。
「なんじゃぁ!!?」
バッコルは即座に腕を再生させようと力を込める。だが、断面から生えようとした肉芽は、チリチリと音を立てて灰になった。
切断面には、グリンネルの魔剣が残した呪いのような「炎」がまとわりつき、細胞の再生を一時的に阻害していた。
「闇雲に刺激するな。……まだ完全には復活していないなら、最悪の事態じゃない」
霧の晴れた橋の上。冷たい声と共に、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。月光のように白い肌。血のように赤い唇。その美貌には、1400年分の妄執と、氷のような殺意が宿っていた。
「遅いと思えば、これはどういうつもりじゃ。バルロフ!!」
バルロフ・ベオ・イスカリア。吸血種となって1400年を生きながらえた、イスカリア王国の王子。その顔貌はルトの顔を研ぎ澄ましたように整っている。
「器を刺激しようとしたから止めたまで。中身の『蒼』が霧散すれば……また逃がすことになりますよ」
バッコルがいら立たしげに再生しない腕を振る。バルロフは、かつて共に戦った神を敬う素振りも見せず、ただ冷ややかな視線を向けた。
「ふん。じゃから儂の糧にしてしまおうというのだ」
「……浅ましい。1400年の月日は、神をも傲慢にするのですか?」
バルロフは聞こえぬ声で呟いた。その瞳の奥には、堕落したかつての盟友への侮蔑の光りが宿っている。
「貴方は、あの時の様に、力だけ貸してくれればいいんです。奴を滅ぼす、その力だけを」
「ふん!!貴様も……顔だけは良いが……言うようになったな」
彼はバッコルへの興味を失ったように視線を外し、地面に倒れ伏す少女へと歩み寄った。
「……あ……」
橋上で跪き、星空が瞬くように明滅をくり返すイルの中から、弱々しい霊体の声が漏れる。
「……あ、に……兄様……?」
ルトの霊体が、信じられないものを見るように揺らめいた。記憶の中の頼もしき兄。そして、自分を打倒し、処刑を執行した兄。
「久しぶりだな、ルトハール」
バルロフは足を止め、無表情のままルトを見下ろした。
「お前を1400年、待ち続けていた。……人の身を捨て、吸血種となってでもな」
「兄様、なんで……」
ルトの霊体は今にも消失しそうなほどにその存在が希薄化している。
「今度こそ、お前を消滅させるためだ」
バルロフの冷徹な宣告。ルトはその言葉に目を見開いた。
「黙レ」
イルがゆらりと上半身を起こした。その瞳は黄金色に輝き、背中からは蒼いオーラが陽炎のように立ち上っている。彼女はバルロフを睨みつけ、威嚇するように喉を鳴らした。
「邪魔ヲ……スルナ……。コノ器ハ……私ノ……」
「表に出てきたか……だがまだ、完全ではない」
バルロフは細剣を抜き放ち、その切っ先をイル――いや、彼女の中に巣食う「蒼」へと向けた。
「勘違いするなよ、弟。用があるのはお前ではない」
バルロフの瞳が、赤く燃え上がる。
「お前の魂に癒着し、1400年前に封印から逃げ出した深淵の『蒼』……。邪神!貴様を殺すために、私はここにいる!!」
その名が告げられた瞬間、空気が凍りついた。
「イル……ヌラ!?」
傍らで身構えていたルガルフが、驚愕に目を見開く。その響きには聞き覚えがあった。いや、この国の者ならば誰もが知っている名に酷似していたからだ。
「知らないか。……長い時の流れの中で、その名は摩耗し、短縮され、今はこう呼ばれている」
バルロフは冷徹に告げた。
「――深海神。その名をすべて呼んではいけないとされる、禁忌の邪神。君たちが信奉する常闇のデヒメルと同じ、この星に巣食う『古き神』さ」
「イル・ヌラ……だって……?」
グリンネルが、キノルが、息を呑む。オリアンが信仰し、心の拠り所にし始めている神。その正体が、目の前の少女の中にいるというのだ。
「うぅ……やめて……やめてくれッ!!」
ルトが頭を抱えて絶叫した。兄との再会。自身の罪。そして、共に旅をしてきたイルの正体。あまりに多くの真実が、彼の魂を引き裂こうとしていた。




