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S-162 「……オカエリ」

 バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:蒼い髪の女イル(深層意識)】


(……嫌だ。来ないで。思い出させないで)


 脳髄の底から、黒く粘り気のある泥が湧き上がってくる。それは私の意志とは無関係に、私という「個」の輪郭を塗りつぶそうとする。

 必死に築き上げてきた「イル」という人格の堤防が、圧倒的な水圧できしみを上げていた。


(見タクナイ。聞キタクナイ……!)


 抵抗する意識の隙間から、極彩色の悪夢が雪崩れ込んでくる。


 ――白。永遠に続く静寂と冷気。世界の北の果て、《氷獄の海ノルデザイ》。分厚い氷の中に閉じ込められ、私は眠っていた。夢も見ず、ただ「その時」を待って。


 ――氷が溶ける音がした。呼ぶ声が聞こえた。甘く、悲痛で、抗いがたい誘惑の響き。私は溶け出した水と共に流れ、南へと下った。たどり着いたのは、豊かな緑と魔法の文明が栄える大陸。


 ――少年がいた。泣きそうな顔で、けれど瞳の奥に昏い野心を燃やす少年。彼は求めていた。自身の無力を嘆き、世界を覆すための「力」を。彼は禁忌の《魔疫魔法》を組み上げ、何かを封印していた「鍵」を壊そうとしていた。だが、彼一人の魔力では足りない。だから、私はほんの少し、指先を貸してあげたのだ。『……イイヨ。手伝ッテアゲル』


 ――黒。世界が腐り落ちる音がした。私が貸した力は、彼の制御を超えて溢れ出した。それは疫病となって国中を駆け巡り、人々を、家畜を、草木さえも溶かした。咳き込む声。肌がただれる音。死臭。国一つが、膿の海に沈んだ。


 ――蒼。バランスが崩れた。ノルデザイの氷が一気に溶け出し、世界の海面が上昇した。《天海ガ満チタ》。大地が悲鳴を上げ、文明が波間に飲み込まれていく。逃げ惑う人々。水没する塔。


 ――対峙。崩壊する王都の只中で、二人の影が向かい合っていた。一人は、絶望に顔を歪めた少年。もう一人は、彼によく似た、少し背の高い青年。青年の瞳には、兄弟への情は僅か。ただ、その多くは災厄を滅ぼさんとする冷徹な殺意に染まっていた。

 青年は一人ではなかった。彼の背後には、忌まわしい影が蠢いていた。豚の頭を持つ忌まわしい存在。獣の王、鱗の王、巨人の王……この世の理外に座す、亜人の王たち。彼らはその強大な力を結集し、私――「世界を飲み込もうとするモノ」へと叩きつけた。


 ――痛み。光が私の身体を貫いた。引き裂かれ、砕かれ、存在を削ぎ落とされる感覚。私は……いや、「私ではない私」は、形を保てなくなり、ただの飛沫、残滓となって霧散した。


 ――潜伏。消滅するわけにはいかない。私は逃げ場所を探した。そして見つけた。処刑され、絶望と怨嗟にまみれた少年の魂の、一番暗い亀裂を。私は彼の魂に寄生し、共に暗い水の底へ、外海へと流れていった。


 ――再誕。永い、永い漂流の果て。外海の深淵で、私たちは「それ」を見つけた。太古の海に沈んだ遺骸。あるいは神の骨か。強力な「器」。1400年の果てに魔力を蓄えたルトは、妄執に取り憑かれたように、蘇生魔法タム・ゼラを唱えた。そして……そこに、何処から発生したのか。もう一つの意思が介在した。骨に肉が付き、皮が張り、私は復活した。


(……コレハ、私ノ記憶ジャナイ)


 必死に否定する。私はイル。怪しまれないよう、ただの商人ってことにした。少し変わった力を持っているだけの、放浪者。


(デモ……)


 脳裏に浮かぶ光景があまりに鮮明で、あまりに懐かしい。破壊の歓喜。浸食の快感。そして、封印された時の屈辱。それらが、私の感情として、内側から溢れ出してくる。


(アア……ソウカ……)


(私ガ……『蒼』ナンダ……)


 私の意思が、深海の色に染まっていく。オリアンへの想いも、仲間たちとの記憶も、全てが巨大な「飢え」に飲み込まれていく。


『……オカエリ』


 口が、勝手に動いた。

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