S-161 「呼ぶな、それを呼ぶなぁぁッ!!」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】
絶望に染まった戦場に、突如として濃密な霧が立ち込めた。海から這い上がってきたような、冷たく、張り付くような白霧。それは視界を奪い、音を吸い込み、戦場を異界へと変えていく。
「……ほぉ……。ザゴスの奴め。しくじったようじゃな」
バッコルは、足元で蠢く瀕死のルガルフやジーナたちへの興味を失い、霧の奥を睨みつけた。
「丁度よい。玩具との遊びにも飽いたところじゃ」
霧の中から、ゆらりと黄金衆たちが現れた。だが、彼らの様子がおかしい。金色の血管を浮かび上がらせた狂戦士たちは、主であるバッコルに背を向けず、虚ろな瞳で彼を取り囲んでいる。
「殺して。……その豚を」
霧の中に響く、鈴のような、しかし氷点下の冷たさを持つ少女の声。
幻妖魔法。
イルの干渉により、黄金衆たちの認識が書き換えられたのだ。彼らの目には今、バッコルこそが「倒すべき敵」として映っている。
「ウオオオオオオッ!!」
黄金衆が一斉にバッコルへ襲いかかった。剣が、槍が、かつての主に突き立てられる。
「小賢しいわ!!」
バッコルは全身から赤黒い棘を突出させ、群がる黄金衆を串刺しにした。だが、その隙は致命的だった。
ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ!!
霧の彼方から、不可視の斬撃が殺到した。イルの水流操作による、極細の水刃。それはバッコルの巨体を、バターのように容易く切り裂いた。
腕が落ちる。翼が裂ける。首が飛ぶ。胴体がダルマ落としのようにズレていく。数秒前まで神を騙っていた肉塊は、瞬く間に数百の肉片へと解体され、橋の上に崩れ落ちた。
「うおぉぉぉ!!やったか!?」
生き残った冒険者たちが、血反吐を吐きながらその光景を見つめる。だが、イルの声には焦りが混じっていた。
「だめだ。……こいつ、死なない奴だ」
崩れ落ちた肉片が、まるで磁石のように引き合い、ドロドロと溶け合いながら再び形を成していく。
切断されたはずの首が繋がり、翼が広がり、羊の頭が再生する。傷一つない姿で蘇ったバッコルは、不快そうに首を鳴らした。
「痛くはないが……不愉快じゃのう」
彼は、霧の奥に佇むイルと、その肩に浮かぶルトの姿を認め、三つの目を細めた。
「ほう。……あの頃と変わらぬな」
バッコルの口元が、三日月のように裂けた。
「蒼よ。……1400年前に逃げ出した貴様が、なぜ今頃になって帰ってきた?」
イルが眉をひそめる。
「は?何言ってんの?人違いじゃない?」
『……1400年……?』
ルトが、その数字に反応して霊体を揺らした。
「んぬ?蒼じゃあないのか。……いや、違うな。匂いは同じだが、中身が空っぽじゃ」
バッコルは興味深そうにイルを観察し、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「貴様は誰だ?……ただの『器』か?ならば、中身はどこへ行った」
バッコルが右手をかざす。赤黒い磁場が発生し、イルの身体を拘束する。そして、彼が指先をクイクイと動かすと、イルの胸の奥から、無理やり何かを引きずり出そうとする強烈な引力が働いた。
「う、ぐあぁぁぁぁッ!?」
「ルトッ!?」
イルが抵抗する間もなく、ルトの霊体が彼女の身体から半分以上引き剥がされる。半透明のルトの姿が、宙ぶらりんの状態でバッコルの前に晒された。
「ほれ、やはり。あの時の小僧、ルトハールではないか」
「なんでこの豚がルトのこと知ってるの!!?」
「し、知りませんよッ!!」
ルトはバッコルの引きはがしに抵抗する。
「じゃが……妙な色が混じっておるのう」
バッコルは、鼻をヒクつかせ、長い舌で空気の味を確かめるように舐めずった。
「これは、魂の根幹が、腐っておる……いや、『変質』しておるな」
「な、何をッ……!」
「見ろ。貴様の霊体の心臓にあたる部分。そこだけ酷く冷たく、どす黒い『蒼』に染まっておるわ」
バッコルがニヤリと嗤い、捕らえたルトに向けて、赤黒い瘴気を指先から注ぎ込んだ。
「ルトッ!!」
イルが叫ぶ。しかし彼女の身体はバッコルの強力な拘束を脱せない。
「や、やめろ……ッ!!何をッ!!?」
「隠しても無駄じゃ。これは『浸食』の痕。貴様はかつて、身の丈に合わぬ『蒼』に触れ、魂ごと食われたのじゃ」
バッコルの瘴気が、ルトの霊体の深部――1400年間、彼自身も気づけなかった「変質した魂の領域」へと侵入する。それは、彼を蝕んでいる「蒼」の浸食を、強制的に活性化させる行為だった。
「ほれ、思い出させてやろう。その汚れが、誰につけられたものなのかを」
ジュウゥゥゥゥッ!!
「ギ、ウアァァァァァァァァッ!?」
ルトの口から、この世のものとは思えない絶叫がほとばしる。言葉ではなく、1400年前の記憶が、バッコルの干渉によって強制的に再生されたのだ。
「ルト、アイツなに!?どうしたの!?」
「あ、あぁ……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だッ!!呼ぶな、それを呼ぶなぁぁッ!!」
ルトが虚空を掻きむしり、狂ったように頭を振る。その反応を見て、バッコルは愉悦に顔を歪め、決定的な一言を放った。
「そうか、思い出したか。……貴様がその器を使って、何を『喚び出した』のかを」
ドクンッ。
ルトの絶叫に共鳴するように、イルの心臓が大きく跳ねた。
ルトの魂にある「浸食」と、イルという「器」が共鳴を起こす。
「喚び……出した……?」
イルの黄金の瞳が、小刻みに震え始める。
ルトから流れ込んでくる、凍えるような後悔と恐怖。それが呼び水となり、彼女自身の深淵にある封印が解き放たれた。
(……ゴボボ……ゴポッ……)
記憶の底。光の届かない深淵の泥の中から、巨大な『何か』が、ゆっくりと身じろぎを始めた。
(……私ハ、知ラナイ……。デモ、魂ガ、震エテイル……)
(『……オ前カ……?』)
(『……再ビ……我ヲ、呼ブノカ……?』)
脳髄を浸食する、冷たく、重く、絶対的な『存在』の波動。
彼女の輪郭がぶれる。蒼い髪が、ぬらぬらとした触手へと戻りかけ、また髪へと戻る。存在そのものが不安定に明滅する。
「ルト……?わたし……なに……?」
視界が歪む。今の戦場の霧ではない。
1400年前。赤く燃える空と、それを飲み込む黒い津波。目の前で灰になって消える、愛しい母の姿。そして、絶望の中で唱えた、禁断の蘇生魔法。
『母様を……生き返らせて……!!』
その願いに応えて、深淵から這い上がってきたのは、母ではなかった。僕が喚び出したのは、母様なんかじゃない。
――世界を飲み込む『蒼い災厄』。
沈んでいく大陸。死に絶える人々。その引き金を引いたのは、他の誰でもない。
「ぼ、僕が……僕が殺したんだ……。僕が、世界を……」
「あ、あ、ああああああああああああああッ!!!!」
ルトの記憶が暴走し、彼の霊体がどす黒く変色していく。その絶望の悲鳴を聞きながら、バッコルは両手を広げ、演劇の幕引きのように告げた。
「そうだ。思い出せ、そして絶望せよ。……貴様らこそが、この世界を水浸しにした元凶。最大の『禁忌』なのだからな」




