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S-160 「勝てるわけがねぇ……」

バイレスリーヴ南/巨大海門/東側関所付近バイレスリーヴ軍本陣【視点:世界(観測者)】


「ぐ、ぅッ……!!」


 オリアンの左肩に、錆びついたナイフが深々と突き刺さった。肉を裂く鈍い音と、焼けつくような激痛。だが、オリアンは悲鳴を上げなかった。むしろ、苦痛に歪む口元で、ニヤリと笑ったのだ。


「な……?」


 拷問官ザゴスの動きが止まる。彼は、獲物が恐怖と苦痛に泣き叫ぶ姿を期待していた。だが、目の前の青年は、自らナイフに身体を押し付け、あろうことかザゴスの手首を、血に濡れた手で万力のように掴んで拘束したのだ。


「つ、捕まえた……」


「馬鹿な……。貴方、正気ですか!?腕が使い物にならなくなりますよ!」


「あぁ、要らないよ。……これさえできれば」


 オリアンは残った右手に持っていた剣を捨てた。そして、懐から取り出したのは執務室の机から持ち出していた、一本の万年筆。彼はそれを逆手に持ち、ザゴスの目でも、喉でもなく――彼が腰からぶら下げていた《骨のカンテラ》の、鎖の留め具に向けて全力で突き立てた。


 ガチィッ!!


 金属音が響き、脆くなっていた留め具が弾け飛ぶ。


「あッ!?」


 ザゴスが気づいた時には遅かった。白濁した光を放つカンテラは、オリアンの体当たりによって弾き飛ばされ、放物線を描いて橋の欄干を越えた。


 ヒュゥゥゥ……


 遥か眼下、荒れ狂う海へと飲み込まれる微かな水音。瞬間、イルを拘束していた白い光の檻が、霧散した。


「しまっ……ひッ!?」


 ザゴスが慌てて振り返る。そこには、虚空を見つめていたはずの蒼髪の女が、ゆっくりと首を巡らせ、こちらを見ていた。その黄金の瞳孔が、縦に裂けるように細められている。


『イル!何をやっていたんですか!!僕たちの国が負けてしまう!!』


 ルトの悲痛な叫びが、彼女の意識を叩き起こす。イルは、オリアンの肩から流れる血と、ザゴスの醜悪な顔を無感情に見つめ、ポツリと呟いた。


「……アイツ、殺す」


 ザゴスは、彼女が動いたことさえ認識できなかった。次の瞬間には、彼の首は胴体から離れ、驚愕の表情を浮かべたまま宙を舞っていた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】


「二人を……運べっ!!!」


 ルガルフの裂帛の気合が、凍りついた冒険者たちを正気に戻した。彼の背後には、見るも無惨な姿に変わり果てた二人の皇女が倒れている。かつて美貌と武勇を誇ったジーナと、彼女を庇ったウィスカ。今はただ、折り重なった赤い肉塊のように静まり返り、微かな呼吸だけが命の証となっていた。


「あ……あぁ……」「急げ!振り返るなッ!!」


 冒険者たちが震える手で皇女たちを抱え上げ、背走していく。それを背中で感じながら、ルガルフは目の前の「神」を見上げた。


 圧倒的だ。生物としての格が違う。帝国最強の盾であったジーナが、紙屑のように砕かれた。あの大戦士カースランが、一撃で海の藻屑となった。ゼクも、ミセイラも、もういない。


 この橋の上で、まともに戦える戦力は、もう自分しか残っていないのだ。


(勝てるわけがねぇ……)


 野生の勘が、けたたましい警鐘を鳴らしている。目の前の怪物は、嵐や地震と同じ「災害」だ。一介の獣人が牙を剥いたところで、止められる相手ではない。


 ルガルフは、縋るように後方の本陣へと視線を走らせた。この絶望的な状況を覆せる存在がいるとすれば、あの規格外の少女――イルしかいない。

 だが。


(な……ッ!?)


 ルガルフの優れた視力は、見てしまった。本陣の天幕付近。そこでは、あのイルが膝をつき、動けなくなっていた。彼女の傍らには、奇妙なカンテラを持った無表情な男が立っている。あのカンテラから放たれる緑色の光が、イルという災害を完全に封殺しているのだと、本能が理解した。


 終わったのか。こちらの切り札すら、封じられたというのか。


 いや――まだだ。


 その緑色の光の傍に、一人の男が立っていた。震える膝を必死に抑え、剣を構え、得体の知れないカンテラの男と対峙している青年。


 オリアンだ。


 かつては臆病者と呼ばれ、今は英雄の皮を被った男。だが、ルガルフは知っている。彼が、守るべきもののために必死に虚勢を張り、震えながらも一歩も引かない男であることを。


(クソがっ!!頼むぞ!!オリアン……ッ)


 ルガルフは、祈るように心の中で咆えた。あいつが何とかするまで、俺がここを食い止める。一秒でも長く。一瞬でも多く。


 ルガルフは正面に向き直る。バッコルが、鬱陶しそうに巨大な足を上げ、踏み潰そうとしているのが見えた。半端な力では、一撃でミンチになる。今のままでは、時間稼ぎすらできない。


(いいさ。くれてやる)


 ルガルフは、自身の内側にある「扉」に手を掛けた。それは、半獣人ライカンスロープとして生きる彼らが、決して開けてはならない禁忌の扉。人の理性を捨て、ただ殺戮のみを求める獣へと堕ちる、片道切符。


「グゥ……オォォォォォォッ!!」


 全身の骨がミシミシと悲鳴を上げ、変形していく。筋肉が異常に膨張し、銀色の毛皮が逆立ち、鋼鉄の針のように硬質化する。口が裂け、牙が伸び、瞳から理性の光が消え失せ、狂気じみた赤色だけが残る。


『完全獣化』。


 二度と人には戻れないかもしれない。愛する者たちの顔すら、忘れてしまうかもしれない。それでも。


(守るんだ。……俺が、壁になる)


 人間としての最後の思考が、獣の咆哮にかき消された。


「ガアアアアアアアアアアアッ!!!」


 橋の上に、神の威圧すら押し返すほどの、狂獣の絶叫が轟いた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:バッコル】


 不可解じゃ。実に不可解よのう。何故、こ奴らは神である儂に、こうも必死に抗うのじゃ?


 1400年前は……人間どもはもっと素直じゃった。儂の与える快楽に溺れ、力にひれ伏し、涙を流して有難がっていたではないか。


 これだから玩具どもは困る。盤面の全体図というものが、まるで視えておらん。世界を滅ぼし、喰らい尽くそうとしておるのは、この儂ではない。貴様らの国を、その足元からひたひたと浸食しておる、あの忌まわしき「蒼」じゃというのに。


 儂は、むしろ救ってやっているつもりなのじゃがなぁ。


 ……あぁ、そうか。わかったぞ。この真なる姿が、下等な貴様らには少々畏れ多すぎたか。神々しすぎて、目が眩んでしまったのじゃな。カッカッカ、仕方ない奴らよ。

 あぁ……あの頃、儂の隣に並んでおった、あの男がおれば違ったかもしれんのう。

 バルロフ・ベオ・イスカリア。


 神たる儂が唯一認めた、あの美しき蛮勇。彼奴が今ここに立ち、儂の横で剣を振るっておれば、貴様らの儂を見る目も、恐怖ではなく崇拝に変わっておったろうに。

 まったく、奴は今、どこで何をしておるのか。


「――邪魔じゃ」


 儂は、思考のついでに腕を振った。目の前で吠え猛り、神の肉体に爪を立てようと飛びかかってきた銀色の獣。理性を捨て、己の命すら燃やして儂に挑んだその決死の跳躍を、儂は羽虫でも払うように、鼻先であしらい、弾き飛ばした。


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