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S-158 「神に仇名すか、玩具どもがぁ!!」

バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】


 静寂は、一瞬にして凍りつくような悪寒へと変わった。


 銀色の短剣が深々と突き刺さったまま、のけ反っていたバージェスの首が、ゴキリと嫌な音を立てて、ゆっくりと持ち上がったのだ。白目を向いていた瞳がぐるりと回転し、焦点を結ぶ。流れ落ちる鮮血を、彼は長い舌でペロリと舐め取った。


「……ククッ」


 喉の奥から漏れたのは、苦悶の声ではない。含み笑いだった。頭蓋を貫かれてなお、笑っている。生物としてあり得ない光景に、勝利を確信していたウィスカの表情が凍りつく。


「愚かな。……実に愚かよのう」


「な、なに……?」


「貴様ら、儂をただの『人間』だと思っているだろう……」


 バージェスが両手を広げると、彼を乗せていた輿と、それを担いでいた四人の黄金衆が、突如として泥のように溶け出した。

 美しかった彼らの肉体が、骨格を失い、黄金色の粘液となって崩れ落ちる。彼らは絶叫を上げる間もなくバージェスの足元から這い上がり、その肥満体に吸収されていく。


「ぐぷっ……あがっ、オオオォォォ!!」


 赤黒い、禍々しいオーラが噴出し、天を衝く。


 肉が弾け、骨が変形する音が戦場に響き渡る。肥大化した肉体はさらに膨れ上がり、高級なシルクの法衣が悲鳴を上げて弾け飛んだ。皮膚が裂けては、その下から鋼鉄のように硬く、どす黒い新たな皮膚が覆っていく。背中の肉が盛り上がり、血管の浮き出た巨大な皮膜の翼がバサリと展開された。


 オーラが晴れた時、そこにはもう、人の形をした執政官はいなかった。


 身の丈5メートルはあろうかという巨体。

 豚のように肥え太りながらも、その贅肉のすべてが強靭な筋肉の鎧と化した怪物。頭部は豚のそれに酷似しているが、口からは猪のような牙が突き出し、側頭部からは山羊のようなねじれた角が生えている。そして、額には縦に裂けた第三の目が、ギョロリと周囲を睥睨していた。


 怪物は、額に突き刺さったままの短剣を無造作に引き抜くと、その傷口を瞬時に癒やしながら、呆れと怒りが混じった吐息を漏らした。


「まったく……。玩具ごときに興を削がれるとはな。せっかく、お前たちの世界に合わせて『ごっこ遊び』に興じてやっていたというのに」


 その声は、地響きのように低く、同時に脳髄を直接撫で回すような粘着質な響きを帯びていた。蹄のある足が、石橋を蜘蛛の巣状に踏み砕く。彼は両腕を広げ、その真なる名を高らかに宣言した。


「我は快楽の神バッコル。……ウニヴェリアの神なるぞ!!神に仇名すか、玩具どもがぁ!!」


 その咆哮は、大気を震わせる衝撃波となって周囲を薙ぎ払った。酒と快楽と狂乱の神バッコル。その異形は、神と呼ぶにはあまりに醜悪で、悪魔そのものだった。


「なんだ……あれは……」


 歴戦のカースランでさえ、その生物としての格の違いに戦慄し、斧を握る手が汗ばむ。


「なんという……禍々しさ」


 ジーナはその異形に震え、それを抑えるため盾を強く握りしめた。


「ウニヴェリアの…神。異端!!」


 ゼクが斧を構え直し、己を鼓舞するように呻いた。

 バッコルは、その巨体から汚泥のような魔力を垂れ流しながら、嗤った。


「貴様らが富と悦楽を求め、欲に溺れたいと願うから、この儂がこうして統治してやっていたのではないか。酒と快楽の加護を与え、国を肥え太らせてやったというのに……貴様ら人間は、つくづく感謝というものを知らぬ種族よな」


 怪物の三つの眼球がギョロリと動き、ウィスカたちを見下ろした。そこにあるのは、飼い犬に手を噛まれた飼い主のような、傲慢な憤りだった。


「崇めよ。ひれ伏せ。……恩を仇で返す愚か者どもめ」


「ひッ……」


「な、なんだアレは……」


 冒険者たちが後ずさる。バッコルは、豚の鼻から黒い蒸気を「フシューッ」と噴き出すと、足元に群がる人間たちを、羽虫でも見るかのように見下ろした。


「玩具に用はないわ!」


 彼が丸太のような腕を無造作に払う。ただそれだけで、赤黒い疾風が巻き起こった。

 刃のような風圧が、巨大な石橋の欄干ごと、逃げ遅れた冒険者たちを無慈悲に両断する。断面から鮮血の花が咲き、彼らは悲鳴を上げることもできず、肉塊となって海へ散らばった。


「――ギ?」


 バッコルは長い腕を伸ばし、近くで触手を蠢かせていた異形――死したボルバの頭を鷲掴みにした。ボルバの蒼い触手が、反射的にバッコルの腕に巻き付き、締め上げようとする。だが、バッコルの腕に触れた瞬間、蒼い触手は赤黒く変色し、瞬く間にどろりと溶け崩れた。


「ギ…イィィィ!!!」


 ボルバの頭部が、熟れた葡萄のように握りつぶされる。彼の身体は瞬く間に赤黒い液体へと変わり、芳醇で、むせ返るような葡萄酒の香りを漂わせながら、石畳の染みとなった。


「なんじゃ……奴の眷属かと思うたが、ただの失敗作か。つまらんのぉ」


 バッコルは汚れた手を振るう。その言葉に、理性を焼き切られた者がいた。


「あんた!彼を……ボルバをつまらないと言ったね!!!」


《斑》の生き残り、シャラヴ。彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必殺の矢を放った。風の加護を受けた矢は、正確にバッコルの左目を射抜く。


「……ぐぬ」


 バッコルは刺さった矢を、小枝でも抜くように引き抜いた。潰れたはずの眼球は、瞬きする間に再生している。


「なんじゃ。玩具ごときが。……お前も遊んでほしいのか?それとも喰ってほしいのか?」


 バッコルが巨大な手をシャラヴへと伸ばす。逃げ場はない。その巨大な掌が彼女を掴み上げ、頭からかじりつこうとした、その刹那。


「させんッ!!」


 銀色の流星が割って入った。カースランだ。彼は全身全霊の闘気を込めた戦斧で、バッコルの掌を受け止める。


「じじいに用はないわ!!」


 バッコルは苛立ち、掌を握り込むのではなく、裏拳で払った。赤黒い斬撃の波がカースランを襲う。


「ぐあァァァッ!!」


 帝国最強の鎧が紙屑のように切り裂かれる。カースランの巨体は、血飛沫を撒き散らしながら吹き飛ばされ、そのまま橋の欄干を越えて、遥か下の荒波へと消えた。


「将軍!!!貴様ぁぁぁ!!」


 余りにあっけない将軍の最後。


 ジーナが絶叫し、盾を構えて突進する。その姿を認めたバッコルは、目を細め、醜悪に口元を歪めた。


「おぉ?お前は……。儂のお気に入りの……どこへ行っとったんじゃぁ」


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