S-155 「さようなら。そして、ありがとう」
血の間【視点:世界(観測者)】
永遠に続くと信じられていた静寂が、音を立ててひび割れた。
濃厚な血の匂いと、腐り落ちた薔薇の香りが充満する《血の間》。その最奥、絶対的な支配者として君臨してきた原初の吸血種ソルフは、自身の玉座から転げ落ちるように立ち上がっていた。
「貴様……原初である我を……」
彼の真紅の瞳孔が、極限まで収縮している。そこにあるのは、数千年の時を生きてなお、一度として味わったことのない感情――「恐怖」だった。
彼の前に立ちはだかるのは、かつて自身の退屈を紛らわすための駒として扱っていた美青年、バルロフ。そして、その脇を固める三人の異邦人たち。
「長寿を与えてくれた感謝は尽きないよ、ソルフ。貴方の血のおかげで、私は悠久の時を越えることができた」
バルロフは、まるで旧友に別れを告げるような、静かで哀切な声色で語りかけた。だが、その白磁のような肌には、冷徹な殺意が蒼く燃えている。
「だが、貴方の存在が私を縛っているんだ。原初としての絶対的な命令権……その枷はもはや、感謝を完全に凌駕している」
バルロフは自身の胸を強く鷲掴みにした。
「ああ、忌々しい。今すぐにでも貴方の首を刎ねてしまいたいが、この身に刻まれた『血の契約』がそれを許さない。貴方に対して刃を向けることすら、私の意志では不可能なのだ」
「ハッ!当たり前だ!被造物が創造主に牙を剥ける道理などない!貴様は永遠に、我が忠実な下僕なのだよ!」
ソルフが勝ち誇ったように嘲笑う。だが、バルロフは涼しい顔で首を振った。
「だから、連れてきたのだよ。私の代わりに、貴方を狩る『刃』たちを」
バルロフが手を掲げると、背後に控えていた三人が殺気を膨れ上がらせた。
――全てを焼き尽くす炎の勇者、グリンネル。
――大魔術師ザラストラの弟子、キノル。
――闇を駆ける復讐の幻獣、クーカ。
「ふん、人間風情が何匹集まろうと!」
ソルフが咆哮した。王としての矜持を傷つけられた怒りが、空間を歪めるほどの魔力となって膨れ上がる。彼は右手を突き出し、虚空を握り潰すように指を閉じた。
《心臓掌握》
視界に入れた対象の心臓を、物理的な距離を無視して握り潰す、原初のみが許された絶対処刑。抵抗など許されない。グリンネルたちが反応するよりも速く、死の圧力がバルロフの心臓を襲う――はずだった。
カッ……!
緑色の不気味な光が、血の間を照らし出した。
「な……ッ!?」
ソルフの手が、見えない壁に阻まれたように空中で止まる。魔力が霧散し、握り込むことができない。光の源は、キノルが高々と掲げた古びたランタン――《魔封じのカンテラ》だった。
「おっと。……どうやら私の『傑作』が邪魔をしたみたいだ」
バルロフが、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「貴様……まさか、あれを作ったのは……」
「冥府の賢者マルヴ。かつてそう呼ばれた時代もあった」
「小賢しいわァァッ!!」
魔術を封じられたソルフは、腰に佩いた長剣を引き抜き、獣のような速さでバルロフへと肉薄した。魔法が使えずとも、原初の吸血種としての身体能力は怪物そのものだ。音速を超える刺突が、バルロフの喉元へと迫る。
「させないッ!!」
轟音と共に、爆発的な炎が舞った。ソルフの剣を、横合いから割り込んだ赤錆色の魔剣が受け止めていた。グリンネルだ。
「炎破――《爆轟》ッ!!」
グリンネルが叫ぶと同時に、剣の接触点から指向性の爆炎が炸裂する。ただの斬撃ではない。魔剣に宿る爆発的な炎を乗せた、攻防一体のカウンター。
「ぐぅッ!?」
至近距離での爆発に、さしもの原初も体勢を崩し、たたらを踏む。その致命的な隙を、黒い影が見逃すはずもなかった。
ヒュンッ。
「――ガッ!?」
ソルフの背後、視界の死角から黒い疾風が駆け抜けた。半獣人クーカだ。彼女は床を這うような低空姿勢から飛び出すと、鋭く伸びた漆黒の爪で、ソルフの両足の腱を正確無比に引き裂いたのだ。
「ぐ、おぉっ……!?」
支えを失い、ガクンと膝をつくソルフ。クーカの攻撃は止まらない。彼女はそのままソルフの背中に軽やかに飛び乗ると、獣のような唸り声を上げ、その黒い爪を彼の両肩に深く突き立て、牙を剥き出して動きを封じた。
「グルルルァッ!!悪意の種めっ!!」
「き、貴様ッ……獣風情が!!離せ!原初たる我に、触れるなぁッ!」
ソルフが藻掻くが、腱を切られ、背に重石を乗せられた状態では力が入らない。クーカは全身全霊の力で原初を地面へと縫い留める。
その光景を見て、バルロフが静かに告げた。
「今だ!キノル。仕上げを!!」
「了解」
バルロフの指示に応じ、キノルは無表情のまま、掲げていたカンテラに向けて自身の杖を振り上げた。
「貴様、気でも狂ったか!?」
足掻きながら、ソルフが嘲笑うように叫ぶ。
「そのカンテラは、空間のマナを掻き回し、泥沼の如く濁らせている!術式を編もうとしたそばから霧散する、『魔術師殺し』の結界だぞ!我が使えぬのに貴様のような小娘が……」
原初の言葉は正しい。カンテラが放つ緑色の光は、大気中の魔力をランダムに振動させ、秩序ある術式の構築を物理的に不可能にする。それは、嵐の中で砂の城を築こうとするようなものだ。
だが、キノルは冷徹な瞳で、足元の怪物を見下ろした。
「……嵐の中でも……クッキーは焼ける」
「あ……?」
キノルの杖の先端が、カンテラの光を拡張し始めた。
「この魔石が……この世界の魔力を正しく理解させてくれる。だから私は……」
「な、何を――」
ソルフが理解するよりも早く、緑色の稲妻が杖からほとばしった。それは、空間の魔力がどう動こうとも関係がない。その空間自体を1つの魔力と見なした雷駆魔法。
「《電磁呪縛》」
バチバチバチッ!!
キノルの杖から放たれた雷撃は霧散することなく、ソルフの身体に流れ込む。クーカは巻き込まれないよう、即座に撤退。
「ぐ、あぁぁぁぁっ!?」
その雷撃は、カンテラの効果を帯び、その能力を限界まで肥大させる。緑色の光が爆発的に膨れ上がり、血の間全体を染め上げる。
「ば、馬鹿なッ……!この魔力乱流を、制御しているというのか……!?それも……只の人間が!?ありえん!!ありえんぞ!!」
ソルフが驚愕に目を見開く。魔法を無効化する環境下で、その環境そのものを掌握する大魔術師の弟子、キノル。
「言ったよ。嵐の中でもクッキーは焼けるって」
キノルが淡々と告げる中、空間を満たす浄化の光が、吸血種を縛る「血の呪縛」の術式を白く塗りつぶしていく。
バルロフの身体から、黒い鎖のようなモヤが霧散していくのが見えた。「絶対的な命令権」という枷が、規格外の魔術によって粉砕されたのだ。
「な、なんだ……この光は!?やめろ、やめろォォォッ!!」
ソルフが絶叫する中、バルロフの身体から、黒い鎖のようなモヤが霧散していくのが見えた。「絶対的な命令権」という枷が、カンテラの光によって無効化されたのだ。
「……ああ、軽くなった」
バルロフは自身の掌を握りしめ、冷たく微笑んだ。
「これでようやく、私の手で貴方に触れることができる」
「ひッ……バ、バルロフ……!」
バルロフが、キノルの電磁呪縛により拘束されたソルフの胸元へと、静かに掌をかざした。
「さようなら。……そして、ありがとう」
「ぐ……ぬ、おぉぉぉぉぉッ!?」
バルロフの掌から、黒い渦が放たれた。
それは破壊の魔法ではない。存在そのものを「虚無」へと還す、禁断の送還魔術。ソルフの身体が、端から砂のように崩れ、塵となって渦の中へと吸い込まれていく。
「バルロフゥゥゥゥ!!貴様、許さぬぞ!深淵に……飲まれるがいいィィィ……!!」
断末魔の呪詛を残し、原初の吸血種は、自らが支配していた血の広間で、跡形もなく消滅した。
後に残ったのは、静寂と、主を失った玉座だけ。
「ひッ……ひぃッ!!」
玉座の陰で、一部始終を見ていた王妃メラハが、腰を抜かして震えていた。彼女はドレスの裾を乱し、床を這って逃げ出そうとする。
「……」
バルロフは、無感情な瞳で彼女を見下ろした。
「バルロフ……慈悲を!私は……私は何も……!」
「私は貴女のことをどうこうする気はありません。ただ……」
バルロフは吐き捨てるように言った。
「貴女は彼女の村の殺戮劇を幇助した身。彼女がどう考えるかは分かりませんよ」
彼が向けた視線の先には、血に濡れた黒爪と牙を舌で舐め取り、喉を鳴らす黒き獣の姿があった。
「あ、あぁ……!ひぃぃぃぃっ!!」
メラハはその殺気に悲鳴を上げ、転がるようにして血の間から逃げ去っていく。かつての栄華も、傲慢さも、全てをかなぐり捨てて、暗い廊下へと。
その背中を、クーカが無言で追いかける。獲物を見つけた捕食者の足取りで、闇の中へと溶けていった。
バルロフは、誰もいなくなった玉座を見上げ、深く息を吐いた。そして、ゆっくりと振り返り、グリンネルとキノルを見渡した。
「終わったよ。……いや、始まりか」
彼は自身の掌を見つめる。ソルフを葬ったその手には、原初から奪い取った、底知れぬ力が脈動していた。
「行こう。……『深蒼』をうち滅ぼしに」
バルロフの視線は、壁を突き抜け、東の空――バイレスリーヴの方角を睨みつけていた。1400年の時を超えた、因縁の決着をつけるために。




