S-149 「虫ケラが……鬱陶しいわッ!」
バイレスリーヴ南/巨大海門/橋上【視点:世界(観測者)】
「くそっ……きりがねぇ!!」
剣士エイダンが、脂汗と返り血に塗れた顔を歪めて叫んだ。愛剣で斬り伏せたザーラム兵の死体が、目の前に小山となって積み上がっている。だが、その向こうからは、銀色の波のような後続部隊が、一切の感情を排して押し寄せてくる。
「邪魔だ!落とせ!」
ザーラム軍の非情さは、冒険者たちの想像を絶していた。彼らは進軍の妨げとなる味方の死体、あるいはまだ息のある負傷兵さえも、ゴミのように橋の欄干から海へと放り捨て、次の大攻勢の足場を作っているのだ。個の力では勝っていても、圧倒的な物量と狂気が、徐々に冒険者たちの体力を削り取っていく。
「負傷者は下がれ!!本陣でアドホックさんの娘に癒してもらえるぞ!!」
後方から、指示が飛ぶ。天幕にはウィクトリアをはじめとする救護班が待機しており、傷ついた者は後退し、回復した者が前線を埋めるというローテーションがかろうじて機能していた。
「魔術師!!ポーションが来たぞ!!」
木箱を抱えた支援部隊が駆け込んでくる。魔力切れで膝をつきかけていたアリルは、放り投げられた青い小瓶を受け取ると、蓋を噛み千切って一気に飲み干した。ルーガットが備蓄し、イルが配分を計算した「命の水」が、枯渇した血管に熱い魔力を走らせる。
「まだ……いける!」
アリルが杖を掲げたその時、前線でエイダンの背後を取ったザーラム兵が、剣を振り下ろそうとしていた。
「しまっ……」
ドゴォッ!!
鈍い音が響き、敵兵の顔面が陥没した。拳一つで兜ごと頭蓋を砕いたのは、全身刺青の巨漢、ボルバだ。
「お……お前、助かった」
エイダンが礼を言うが、ボルバの視線は定まっていない。彼はエイダンを見ることなく、虚空に向かって口の端を吊り上げ、涎を垂らした。
「はははぁ!雑魚が!屑がぁぁぁ!!死ね!役に立て!ゴミは掃除だぁぁ!!」
その姿は、味方ですら戦慄するほどの狂気に満ちている。彼を追ってきた《斑》の仲間、槍使いのドンと弓手のシャラヴが、引きつった顔でその背中を見つめる。
「おい、ボルバの旦那……様子がおかしいぞ」
ドンが声をかけようとした、その瞬間だった。
「どけ、雑兵ども」
轟音と共に、前線の兵士たちが吹き飛ばされた。現れたのは、身の丈を超える長大な槍を携えた、銀色の重装甲。ザーラム軍総司令官、ラーガン将軍だ。
「ヒャハッ!」
ボルバが反射的に飛びかかる。だが、ラーガンは冷徹な眼差しでそれを見切り、石突でボルバの脇腹を強打した。
「ぐべぇッ!?」
骨が砕ける音と共に、巨漢のボルバが枯れ木のように吹き飛ぶ。かろうじて致命傷は避けたが、動ける状態ではない。
「ボルバ!」
ドンが槍を繰り出し、ラーガンの隙を突こうとする。だが、歴戦の将軍にとって、それは隙ではなかった。
「遅い」
ズプッ。
ラーガンの槍が、ドンの胸板を紙のように貫いた。
「あ……が……」
「ドンッ!!」
シャラヴの絶叫が響く。ラーガンは無表情のまま槍を振り上げ、串刺しにしたドンを宙に掲げると、そのまま橋の外へ向かって振り払った。
仲間が一瞬でゴミのように捨てられた現実に、冒険者たちの思考が凍りつく。
「次は誰だ?纏めてかかってこい」
ラーガンが血濡れた槍を構える。その圧倒的な武威に、ザーラム兵たちが歓声を上げる。
「やらせねぇぞ……!」
エイダンが吠え、コーマックが盾を構えて突進する。激しい金属音。ラーガンの剛槍をコーマックが受け止め、その隙をエイダンが狙う。遠距離からはニーヴの矢とアリルの魔法がラーガンを牽制する。
「将軍をお守りしろ!」
親衛隊が割って入ろうとするが、それを《結縁団》のベーガン、ダラハ、トルクらが立ちはだかって食い止める。
「こいつらの相手は俺たちがやる!エイダン、大将首を獲れッ!」
総力戦だ。全員が傷だらけになりながら、必死にラーガンという怪物を削っていく。だが、ラーガンの槍捌きは鉄壁。決定打が入らない。
「虫ケラが……鬱陶しいわッ!」
ラーガンが闘気を爆発させ、コーマックの大盾ごとエイダンを吹き飛ばす。体勢を崩したエイダンに、死の槍が突き出された。
「終わりだ」
避けられない。エイダンが死を覚悟した時。
「ウオォォォォォッ!!」
血まみれの肉塊が、横合いからラーガンの槍に抱きついた。ボルバだ。腹を潰され、口から内臓の破片を吐き出しながら、彼は狂ったように笑い、ラーガンの動きを封じた。
「なっ……離せ、狂人め!」
「今だぁぁぁッ!!」
エイダンは、その刹那に全てを賭けた。渾身の力を込め、剣をラーガンの首筋――兜の隙間へと突き入れる。
ズドォッ!!
「が、はッ……馬鹿、な……」
ラーガンの目が驚愕に見開かれ、巨体がゆっくりと崩れ落ちた。総司令官の敗北。ザーラム軍の動きが止まる。
静寂が戻った橋の上で、ボルバもまた、力尽きて仰向けに倒れ込んだ。その身体は既に冷たく、瞳の光は消えかけている。
エイダンが駆け寄る。だが、ボルバはエイダンを見ていなかった。彼は、混濁した意識の中で、虚空に浮かぶ「黄金の瞳」を見ていた。
あの日、監獄で自分を見下ろした、絶対的な支配者。彼女が今、どこか遠くから自分を見ている気がした。
「……視て……くれた……」
ボルバは、うっとりとした、まるで恋する乙女のような恍惚の笑みを浮かべた。戦場の誰よりも幸せそうで、そして誰よりも不気味だった。




