S-147 「この戦い。大勢死にますよ」
バイレスリーヴ南/巨大開門/東側関所付近バイレスリーヴ軍本陣【視点:世界(観測者)】
世界を東西に分かつ内海の入り口。そこに架かる《巨大海門》は、人知を超えた威容を誇っていた。海面から遥か高くに架けられた長大な石橋。
そして、その橋を跨ぐように聳え立つのは、雲を突くほどの巨大な二体の石像だ。男神と女神を模したその巨像は、遥か神話の時代、巨人族によって建造されたと伝えられている。二柱の神は、互いの持つ剣と杖を頭上で交差させ、その下を通る者を見下ろす「門」を形成していた。朝霧にかすむ巨神の頂きは、人間の営みの小ささを嘲笑うかのように、ただ静寂を保っている。
だが、その巨神の肩口――その高みに、一つの人影があった。
闇鍛冶ビヴォール。吸血種である彼は、昇り始めた太陽の兆しから身を守るため、分厚い革製の黒い日傘を差し、その影に身を縮こまらせていた。日傘からはみ出した指先からチリチリと白い煙が上がり、皮膚が焼けただれる。彼はその痛みに顔をしかめながらも、その場を動こうとはしない。
『ビヴォール。貴方には、この戦いを見ていてほしい』
出陣前、オリアンは彼にそう告げた。
『勝っても負けても、この歴史的な一日を……貴方のその芸術的な感性と、永遠に近い寿命で記憶し、後世に残してほしいのです。石に、鉄に、あるいは物語として』
「………難儀な注文だ。だが、悪くない」
ビヴォールは日傘の下で、眼下の盤面を見下ろした。彼の赤い瞳は、これから始まる惨劇を、後世に語り継ぐべき叙事詩として捉えていた。
視線を下に向ければ、巨神の足元は今、張り詰めた殺気と熱気に支配されていた。橋の西側、ザーラム共和国側には、銀色の鎧で統一された大軍勢が、地平線を埋め尽くす鉄の波となって整然と並んでいる。
その数、およそ三万。対する東側、バイレスリーヴ側には、冒険者ギルドの猛者たちが、三〜五人のパーティ単位で陣取り、雑多ながらも歴戦の気配を漂わせていた。
東側関所の背後に設営された巨大な天幕。バイレスリーヴ軍本陣の作戦室には、国家元首オリアンと、冒険者ギルド会長グラース、そして名だたる中級冒険者たちの姿があった。
「……皆さん」
オリアンが口を開く。その手は、卓上の地図を握りしめ、微かに震えていた。武人ではない彼にとって、これから始まる殺し合いの号令をかける重圧は、計り知れないものがある。だが、彼はその震えを隠そうとはしなかった。深く息を吸い込み、肺の奥まで冷たい空気で満たすと、震えごと恐怖を飲み込み、毅然と顔を上げた。
「私は、皆さんに嘘は言いません。敵の数は我々の十倍以上。まともにぶつかれば、我々はひとたまりもなく蹂躙されるでしょう」
冒険者たちの間に、緊張が走る。
「だからこそ、この場所なのです。この巨大海門という『一本道』においてのみ、彼らの数の暴力は無効化されます。ここは、個の力に勝る君たち冒険者が、最も輝ける舞台だ」
オリアンは、一人一人の目を見据えた。
「死なないでくれ、とは言いません。これは戦争です。……ですが、無駄には死なせない。君たちが稼ぐ一秒が、一太刀が、この国の未来を形作る礎になります。……どうか、私の背中を、この国を、支えてください」
静かな、けれど魂からの言葉。熱狂的な煽動ではなく、共に恐怖を背負う指導者の覚悟に、荒くれ者の冒険者たちは無言で拳を胸に当て、応えた。
「総員、配置につけぇ!!」
グラースの怒号が響き、冒険者たちが鬨の声を上げて飛び出していく。
天幕の中に残ったのは、オリアンと、その背後に控えるイルだけとなった。かつて「ただの商人」と侮られた彼女を見る目は、今や完全に変わっている。誰もが彼女を、若き賢者オリアンを支える「美しき才女」として、畏敬の念を持って見ていた。
『……この戦い。大勢死にますよ』
イルの身体の奥底から、ルトの冷ややかな声が響く。
『そうだね』
イルは表情を変えずに、内心で応じる。
『干渉しないのですか。僕たち…。いや、イルの力なら…』
『本気の戦いだよ。敵も、味方も』
イルは、震えるオリアンの背中を優しく見つめた。
『バイレスリーヴのこの先を考えれば……死した者の血が、その地を固めて強固にするの。じゃないと、この国は本当の意味で自立できない。そして、それはオリアンの下でなら成せると思う』
『……「雨降って地固まる」ならぬ、「血吸って地固まる」ですか。その一説、オリアンの書庫にある何かの本で読んだ気がしますが……』
(僕が、復活したばかりの無垢な彼女に、教育を施したなかで「地上の生態系に干渉しないこと」と口酸っぱく伝えてきた。もし、そう伝えてこなければ、彼女はこの思考に至らなかったのだろうか)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
『って。散々干渉しといて、どの口が言うんだって感じだよね』
(……今、僕の心が読まれましたか?)
『……まぁ。僕としても、1400年前の故郷の風を感じるこの国の味方です』
『それは私も同じ。ただ、彼らの「本気」に、部外者が安易に水を差すような真似はしたくないだけ』
イルとルトは、人外なりの流儀で、この悲劇的な喜劇を見守ることを決めていた。
外では、地平線から太陽が昇り始めていた。薄明の空が、血のような赤色に染まっていく。
最前線。巨大な石橋の上で、それぞれの武器を構える冒険者たち。
中級への昇格を果たした《カエル団》。剣士エイダンは愛剣に口付けし、重戦士コーマックは大盾を構える。弓手ニーヴは風を読み、魔術師アリルは杖を握る手が汗ばむのを拭った。
その隣には、《斑》の面々。洗脳された《猟犬のボルバ》は、虚ろな目でただ敵を見据え、弓手のシャラヴと槍使いのドンが、そんな彼を不気味がりつつも頼りにしている。
さらにカエル団と同期の《結縁団》。大剣のベーガンは冷たい刃を肩に担いで静かに闘志を燃やし、弓手のドリンは指先で弦の張りを確かめる。斧使いのダラハは獰猛な笑みで獲物を睨みつけ、重装盾のトルクは大地を強く踏みしめ、仲間を守る鉄壁となる覚悟を決めていた。
そして、彼らの中に溶け込むように、黒いローブで顔を隠した数名の影。《黒き監視団》の精鋭たち。リザードマンのゼク、醜女ミセイラ、銀髪のルガルフ、そしてオーエン、ウィクトリアが、静かに殺気を研ぎ澄ませている。
ブォォォォォォォォォォ…………!
対岸のザーラム軍から、腹の底に響くような低い角笛の音が轟いた。それは、死神の足音にも似た、開戦の合図。
「進めぇぇぇッ!!踏み潰せぇぇ!!」
地平線を埋め尽くす銀色の波が、一斉に動き出した。数万の軍靴が石橋を叩き、巨大な喊声と地響きが、巨大海門を揺るがす。
バイレスリーヴの存亡を賭けた陸の防衛戦が、今、幕を開けた。




