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S-146 「僕は、君という存在に……」

バイレスリーヴ/潮風通り/【視点:蒼髪の少女イル】


「おっ、イル様だ!」


「よう、『ただの商人』!また飲んでんのか!」


「ここにある酒を全部飲み干す気かぁ!?」


 黄金の潮風亭主催の祭に沸く潮風通りの喧騒の中、街行く人々が親しみを込めて私に声をかけてくる。


 私はルトに選んでもらったお気に入りのドレスを着て、街中を散策していた。

 決闘大会での一件以来、私の名は知れ渡り、畏敬よりも先に「大酒飲み」としての愛称が定着してしまっていた。


 私は苦笑しつつ、挨拶代わりに手元のマグを掲げる。渇いた喉を上質な葡萄酒で潤すと、芳醇な香りと共に、祭りの熱気が身体の奥へと沁み渡っていった。


『……賑やかだね。こういう光景を見ていると、久しぶりに面倒な《海のアイツら》にも会いたいと思ってくるから不思議だ』


 私の内側で、ルトがポツリと零す。


『えぇ……本当に。いい国になりましたね』


 通りに並べられた無数のテーブル。そこには、子供たちに囲まれて慈愛に満ちた笑顔を見せるダイアナさんや、肉料理を片手に走り回るバラ、そして屈強な冒険者たちと腕相撲で盛り上がるグラースさんの姿があった。さらには、常闇の手であるはずのヨークスまでもが、何食わぬ顔で家族を連れ、この平穏を享受している。


『……え?ルトがしんみりしてる……死亡フラグ?』


『いや、僕はもう死んでますので』


 いつもの軽口。けれど、そこに棘はない。


『僕は本来、こういう賑やかな場には嫌悪感を持つ人種のはずなんですけどね。なぜでしょうか……最近は、悪くないと思えてくるのです』


 ルトの意識は、私の肩口から、楽しげに笑う人々を見つめていた。その瞳に映っているのは、この街の景色か、それとも遥か昔に彼が失った故国の幻影か。


 ふと、彼から温かい感情が流れ込んでくるのを感じた。


『私も……海にいた時の邪悪だった君とは、一緒にいたくない。早く出てってほしいって思ってたけど』


 酔いが回っているせいだろうか。心の中で留めるはずだった言葉が、ふわりと口からこぼれ落ちた。


『この街に来て……特に最近は。まあ、ずっと一緒に居てくれても良いかなって、思うようになってきた』


 それは、嘘偽りのない本音だった。


『――なっ、何を話しているんですか!?急に!!』


 ルトが慌てふためき、私の顔を覗き込む気配がする。私は悪戯っぽく彼を見つめ返した。

 私は、彼の不器用な優しさを知っている。夜、私が眠りに落ちた後。彼が実体のない手で、私の頭を愛おしそうに撫でようとし――触れられないことに気づいて、寂しげに手を引いていることを。


 私は酔いに任せて、彼に向き直る。彼は私の改まった態度に、急に緊張した面持ちで固まった。


『何って。ルトのこと……す』


「イル!こんな所に」


 その時、温かな、しかし強引な手が私の腕を引いた。言葉は遮られ、現実に引き戻される。


「すみません、一緒に踊ってくれませんか。皆に望まれてしまって」


「あ、う、うん。もちろん!」


 目の前にいたのは、オリアンだった。私は彼に付き従い、光と音楽が溢れる噴水広場へと連れ出される。


(やっぱり……飲み過ぎてる。私は何を言おうとしてたんだろ)


 広場では舞曲が奏でられ、私たちが中央に進み出ると、割れんばかりの手拍子と黄色い歓声が沸き上がった。


 オリアンが私の腰に手を回し、滑らかにステップを踏む。いつ覚えたのだろうか。彼は完璧に私をエスコートし、私も見様見真似でそれに応じる。

 初めて会った時の、あの震えていた臆病者の青年はもういない。今の彼は、自信に満ち溢れ、精悍で、誰もが憧れる「英雄」の顔をしている。

 誰が見ても理想の国家元首の姿がそこにあった。


 私は彼に笑顔で応じながらも、その視線は、無意識のうちに私の中のルトへと向けられていた。オリアンの腕の中にいながら、心は別の場所に繋がっている。


『……イル』


 しばらく黙って考え事をしていたルトが、静かに口を開いた。その声色は、いつになく真剣で、震えていた。


『……何?』


 私が心の中で問い返すと、彼はため息交じりに、けれど噛みしめるように言葉を紡ぎ始めた。


『君は本当に、手のかかる器でした。お人好しで、警戒心がなくて、すぐに他人を信じる。僕みたいな邪悪な怨念をその身に宿していても』


 相変わらずの憎まれ口。でも、そこには私を責める響きはなく、むしろ愛おしさが滲んでいた。


『……僕はずっと…調子を狂わされてきた。憎しみに満ちた僕の心は、君のその間の抜けた笑顔を見るたびに、毒気を抜かれていく』


 私の視界が、滲む。


 オリアンに合わせて回る世界の中で、ルトの言葉だけが、魂の芯に降り積もっていく。


『僕は、君という存在に……本当に……出会えてよかった』


 舞曲は最終局面クライマックスに差し掛かる。旋律が高まり、光が乱舞し、世界が私たちを祝福するように回転する。


 最後の決めポーズと共に、オリアンが私を強く抱き寄せた。周囲から、爆発的な拍手喝采が巻き起こる。


 その轟音の中で、私の心と、私の耳に、二つの声が示し合わせたように重なった。


『……好きだ。君のことが』「好きです。君が」


 内なるルトと、目の前の英雄オリアン。二人から同時に告げられた告白に、私の心臓は大きくはね、時が止まったかのように立ち尽くしていた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/裏通り/書店の書庫【視点:世界(観測者)】


 賑やかな潮風通りの喧騒から遠く離れた、裏通りの一画。書店『書店の書庫』には、重苦しい静寂と、古紙の匂いが沈殿していた。


 そのカウンターの奥で、店主であり大魔術師、ニーネッドは、鬼気迫る形相で執筆作業を行っていた。


 羊皮紙に記された題名は、《臆病者の都》。


 それは、とある小国の物語。偉大な王が暗殺され、残された臆病者の息子が、仲間とともに成長し、大英雄となり、国を総べ、強国に立ち向かうという王道の英雄譚。

 物語は佳境に入り、インクの乾く間もないほどの速度で筆は進んでいた。だが――突然、ニーネッドの手が止まる。


「むぅ……」


 彼は、物語の『前半』と『後半』の繋ぎ目に、決定的な違和感を覚えていた。まるで、別の人間が書いたかのよう。


 その違和感の元凶。それは、物語の鍵を握る「蒼髪の少女」に対する描写だ。

 彼は、震える指先で、過去に自分が書いた行をなぞる。


『その少女の瞳には、人の理を超えた昏い光が宿っていた』『彼女は英雄を導く者ではない。英雄という名の棺桶を作る、葬儀屋だ』『怪物。異形。触れてはならぬ深淵――』


 ニーネッドは、眉間に深い皺を刻み、呻いた。


「私は何故……これほどまでに、彼女を疑っていたんだ?」


 今の彼の脳裏に浮かぶ「蒼髪の少女」は、慈愛に満ち、臆病な青年を献身的に支える、女神のような存在だ。だというのに、過去の自分は、彼女を「化物」と断じ、警鐘を鳴らすような筆致で書き連ねている。


 大魔術師である自分の観察眼が、間違っていたのか?いや、違う。今の自分こそが「正しい」のだ。あの美しい少女が、化物であるはずがない。これは冒涜だ。英雄譚にあるまじき、汚れだ。


 修正しなければ。この「真実」を、消し去らなければ。


「……私の目は、どうかしていたようだ」


 ニーネッドは、インク壺にペン先を突き刺し、たっぷりと黒い液体を吸わせた。


 ガリッ。ガリガリッ、ガリッ。


 静寂な書庫に、硬いペン先が羊皮紙を削る、不快な音が響く。彼は「怪物」という文字を塗りつぶす。「異形」という文字を、黒く塗り込める。まるで、自らの脳にこびりついた「正気」そのものを、物理的に削ぎ落とすかのように。執拗に、暴力的に。

 元の文字が読めなくなり、紙がインクでぐずぐずになるまで、彼は手を止めなかった。


 やがて、黒い染みだけが残った原稿を見つめ、ニーネッドは恍惚とした表情で、誰にともなく懺悔した。


「……お許しください」


 書店の奥。黒く塗りつぶされた物語だけが、真実を知っていた。


 ■ ■ ■


 そして……一カ月の時が過ぎた。


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