S-145 「怖いか、ディーバ」 「……ええ。とても」
連合王国/王城最上層/国王私室【視点:世界(観測者)】
窓の外には、出陣を明日に控えた兵士たちの松明が、地上の星空のように揺らめいていた。だが、その熱気は、厚い石壁に阻まれ、この部屋には届かない。
「……『大唱の儀』、大義であったな。ディーバ」
国王レガリオは、豪奢な椅子に深く身体を沈め、重い吐息と共に妻を労った。
「あなたこそ、レガリオ様」
王妃ディーバ。先程まで城のバルコニーで、数万の兵を奮い立たせる歌声を披露していた彼女は、今はただの疲れ切った妻の顔で、夫の肩に手を添えた。
「我が国は、君のその美しい声で、かろうじて一つに団結していられる……。改めて、そう痛感したよ」
「……買い被りすぎですわ」
自嘲気味に笑う二人の間に、ペタペタという小さな足音が近づく。第一王子、レグルスだ。
「あぅ……あお……」
彼が唇を震わせて紡いだ音は、不明瞭で、意味を持たないノイズに近い。生まれつき耳の聞こえない彼は、自分の声を聞くことができないのだ。それでも、彼は満面の笑みで一枚の羊皮紙を二人の前に掲げた。
『僕には聞こえなかったけれど、父上も母上も、誰よりも輝いて見えました』
整った筆跡で書かれたその言葉。国中を熱狂させた母の「歌声」だけが、皮肉にも、最愛の息子にだけは届かない。レガリオとディーバの胸に、愛しさと、どうしようもない罪悪感が去来する。
「……ありがとう、レグルス」
レガリオは微笑み、息子の頭を優しく撫でた。ディーバは言葉の代わりに、彼の手を取り、指先で『愛している』と記号を描く。レグルスは嬉しそうに、けれど微かに寂しそうな瞳ではにかんだ。
その温かくも切ない家族の空間に、ノックもなく踏み入ることを許された唯一の男がいた。国王親衛隊長、トゥーバ。岩のような巨躯に、白銀の大剣を背負った若き英雄。その銀の輝きは、この国に暗い影を落とす『血』の眷属への、明確な拒絶の意志を示していた。
「トゥーバか」
「失礼いたします」
トゥーバは一礼し、静かに控える。レガリオは、息子から視線を外し、覚悟を決めた瞳で腹心を見据えた。
「……トゥーバ。今度の戦いは、恐らくこれまでにないほど激しいものとなるだろう。宿敵ソラス率いる帝国軍、そして英雄オリアン率いるバイレスリーヴ軍……。この戦いを招いた私の責任は重い」
王の言葉に力がこもる。
「故に、私は前線で指揮を執る。……この身がどうなるかは分からぬ」
「陛下」
「その時は……この子を、レグルスを頼めるか」
それは、事実上の遺言だった。だが、トゥーバは眉一つ動かさず、力強く首を振った。
「お断りします。――王は、この私が守りますゆえ」
「トゥーバ……」
「それに……レグルス様は、音のない世界におられるからこそ、誰よりも研ぎ澄まされた『眼』をお持ちです」
トゥーバは屈み込み、身振り手振りでレグルスに合図を送る。
『夜の稽古の時間です』と。
「少し、レグルス様と身体を動かして参ります。……怠け者のクリントも、寝床から叩き起こして連れて行くとしましょう」
それは、王と王妃に「二人きりの時間」を与えるための、彼なりの不器用な気遣いだった。レグルスは状況を察したのか、兄のように慕うトゥーバの手を取り、元気よく頷いた。
重厚な扉が閉まる。広い部屋に、再び二人だけが残された。
張り詰めていた糸が切れるように、レガリオとディーバは、無言で互いを求め、抱き合った。
「……怖いか、ディーバ」
「……ええ。とても」
国を背負う王と、兵を鼓舞する歌姫。だが、その仮面の下にある二人の身体は、来るべき破滅の予感に、小刻みに震えていた。




