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S-140 「この人は、寂しいんだろうな」

帝都ゼーデン/皇国進軍の儀【視点:世界(観測者)】


 帝都の空は、鉛のように重く、それでいて嵐の前の静けさを孕んでいた。王城のバルコニーから見下ろす広場には、人の海が広がっているのではない。そこにあるのは、帝国が誇る「武」の結晶そのものだった。


 眼下を埋め尽くすのは、万騎、千弓、百影の三軍。それぞれの部隊は、所属する家門の紋章旗を掲げつつも、まるで一つの巨大な生き物のように呼吸を合わせ、整列している。


 中央を圧するのは、漆黒の重甲冑に身を包んだ《万騎ばんき》の軍勢。その先頭に立つのは、帝国陸戦の要、カースラン・ジス・バルブレアだ。

 巨岩のような体躯を持つ彼は、ソラス皇帝の盟友にして、帝国の武を象徴する存在。かつての境界戦線において、人の身でありながらリザードマンの英雄と一騎打ちを演じ、これをねじ伏せたという武勇は、兵たちの間で神話のように語り継がれている。彼の放つ不動の覇気は、それだけで敵の戦意を挫く壁であった。


 その右翼に展開するのは、鮮血のような赤き衣を纏う《千弓せんきゅう》の精鋭。率いるは、千弓将軍、オルタ・ジス・ドルモア。

 風読みの天才と称される彼は、見た目こそ優男で、酒場では女の尻ばかり追いかけていると噂される若き将軍だ。だが、その実力に疑義を挟む者はいない。「嵐の中で落ちる雨粒を射抜いた」という嘘のような逸話を、彼を知る者は誰も笑わないからだ。魔術と弓術を束ねる戦略の要として、彼は涼しい顔で戦場を見据えている。


 そして、左翼。異質な空気を放つ黄色の装束、《百影ひゃくえい》の集団。本来ならば、そこにはゲアラハ・ジス・バルブレアが立っていたはずだ。

 だが今、その場所には一人の少女が堂々と立っている。新たな百影将軍、ウィスカ・マグ・ファラン。第弐皇女という立場ゆえに「七光り」と陰口を叩かれた日々は過去のもの。敵国ザーラムでの過酷な潜入任務を完遂し、その功績をもってソラスより将軍位を授けられた彼女の背中は、以前よりもひと回り大きく、強靭に見えた。


 そのウィスカの姿を、万騎軍一番隊の隊列から、熱い視線で見守る影があった。隊長のジーナである。彼女の背後に控える屈強な帝国兵たちもまた、若き皇女の覚悟に敬意を表し、槍の柄を強く握りしめていた。


 厳粛な空気が広場を支配し、式典が最高潮に達しようとした、その時だった。


 ――ギャオアァァァァ!!


 突如、上空を裂く咆哮と共に、巨大な翼竜が舞い降りた。帝都には本来生息せぬはずの捕食者の影。整列していた兵たちに一瞬の動揺が走る。だが、彼らはすぐに武器を収めた。その飛竜が、誰の「愛馬」であるかを知っていたからだ。

 人知の及ばぬ平原において、暴威たる飛竜を狩り、手懐ける規格外の存在。


「あー、もう始まってる?っていうか、終わりそう!?」


 土煙を上げて着陸した飛竜の背から、小柄な少女がひょいと飛び降りる。第参皇女、ティナ・マグ・ファラン。彼女は巨大な飛竜の顎をよしよしと撫でると、悪びれる様子もなく、そそくさとオルタ率いる千弓の隊列に紛れ込んだ。


 壇上のソラスは、一瞬だけ演説を止めた。その瞳に宿ったのは、呆れを含んだ、しかし温かな慈愛の光。だが、それは瞬きの間のこと。すぐに鋭い眼光を取り戻し、皇帝としての威厳ある声を響かせた。


「――我ら帝国ゼーデンは、これより未曾有の戦乱へと踏み出す!」


 広場を揺るがす喚声。その熱狂を、遥か高みにある「翡翠の間」の窓越しに見つめる二つの影があった。


 一人は、長い時を生き、バイレスリーヴの裏の支配者とも囁かれる美女、ディナリエル。彼女は、その長い寿命の中で幾度もの戦を見てきた。だが、肌で感じていた。今回の大戦は、過去のどの悲劇とも比べものにならぬ、世界を砕くものになるだろうと。


 そして、その傍らに佇む青年、ノエル。左右で色の異なる双眸が、眼下のソラスと、戦場へ向かう皇女たちを静かに映している。


 この重要な時期に、ソラスが二人を「客人」として招いた理由は明白にして複雑だ。表向きは、元将軍ゲアラハの移送と、混乱する「百影」部隊の立て直しへの助力。さらには、大戦における別働隊の指揮依頼。ディナリエルは、バイレスリーヴを不在にするリスクよりも、この依頼を受けることが国益、ひいては世界の均衡に繋がると判断し、受諾した。


 だが、ノエルは感じ取っていた。それらすべては、皇帝ソラスの理屈であり、同時に「仮面」であると。


(……この人は、寂しいんだろうな)


 前代未聞の大戦を前に、親しき者たちを――かつて愛した女性の面影を持つ者たちを、自分の手の届く場所に置いておきたい。そんな、一人の弱い男としての「願い」を、何重もの仮面の下に隠し、厳かな勅命に練り込ませたのだ。


 ソラスの演説が終わる。地響きのような歓声が、窓ガラスを微かに震わせた。


「常闇の神、デヒメルの加護がありますように」


 ディナリエルが、祈るように呟いた。ノエルは視線を、彼女の横顔に向ける。


「母さ……いや、ボス。今の祈りは、誰に向けたものですか」


 ノエルの観察眼は鋭い。その質問の意図を、彼女は何となく理解したようだった。


「はは。お前にだよ。……それに、母さんで構わん」


 その言葉に、ノエルは複雑な表情を浮かべた。喜びと、諦めと、微かな疑念。


「ありがとう……ございます。ボス」


 ノエルは内心で首を振る。嘘だ。今の祈りは、ソラスと、戦地へ赴く皇女たちへ向けられたものだ。俺は、その「ついで」にも含まれていない。だから、俺は自分で祈るしかない。


(あれ?何に祈る?)


 常闇の神か?いや、しっくりこない。もっと深く、暗く、けれどどこか懐かしい……。


(深海神、ルヌ……)


 その名を脳裏に描いた瞬間。ノエルの瞳の奥に、誰にも気づかれぬほどの、蒼い光が差した。

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