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S-139 「だから『イデア』が見えないのかな?」

バイレスリーヴ/潮風通り/【視点:幽霊王子ルト】


「おっと、『ただの商人』さん。どこかお出かけで?」


 イルが石畳の街路を歩くだけで、道ゆく人々が振り返り、親しみを込めて声をかけてくる。決闘大会での活躍以来、彼女への視線は熱を帯びたものに変わっていた。


「いやぁ……いつ見ても美人だ。美の神ヴェネラが人の形をしているなら、それは間違いなく彼女だろう」


「まったくだ。あんな綺麗な娘さんが、この街にいてくれるなんてな」


 すれ違いざまに聞こえてくる、男たちの浮ついた囁き声。僕はイルの意識の奥底で、呆れと共に毒づいた。


(……美の神?よく言う。あれは酒の神バッコルも裸足で逃げ出す、底なしの大酒飲みだというのに)


 だが、当の本人はそんな彼らの勘違いなど意に介さず、朗らかな笑顔を振りまいている。その、無防備で屈託のない笑顔が、どれほど周囲の男たちの理性を揺さぶっているのか、この器は全く理解していないのだ。


『イル、前見て歩いて下さい。また壁にぶつかりますよ』


『あれ、もしかしてルト拗ねてる?』


『す、拗ねてなんか!……っと、目的地は目の前です。シャキッとしてください』


 僕は彼女の思考を軽く小突き、目の前の豪奢な看板を掲げた店へと意識を向けさせた。


 高級衣装店。


 イルは今や「英雄オリアン」を支える参謀役として、公的な場に顔を出す機会が増えている。衆目を浴びる以上、みすぼらしい格好をさせるわけにはいかない。元王族としての僕の矜持がそれを許さなかった。


 ■ ■ ■


『うーん……ルト、これなんかどうかな?強そうじゃない?』


 店に入るなり、イルが手に取ったのは、なぜかトゲのついた革のビスチェだった。


『……貴女はこれから山賊の親分にでもなるつもりですか?即座に戻してください』


『えー、動きやすそうなのに』


『却下です。次はそこの……。いや、それはダメです。デザインが終わってます』


 前々から薄々感じてはいたが、イルには致命的に美的センスが欠落していた。深海で育ったせいなのか、それとも彼女自身の資質なのか。放っておけば、彼女は間違いなく「強そうな」服か「派手な」服を選び、英雄の隣で道化を演じることになるだろう。


 彼女がいつも着ている服も、僕が選んだものなのだ。


『はぁ……。いいですか、僕の指示通りに動いてください。まずはその奥の棚、そのドレスを』


『これ?地味じゃない?』


『そうですか?僕には色が分からないので……。イルが選んだドレスよりは圧倒的に良いですよ。素材も良さそうだ。というか……つべこべ言わず、試着室へ!』


 僕は溜息交じりに指示を飛ばした。イルは「ぶーぶー」と不満げな声を漏らしながらも、僕の選んだドレスを抱えて試着室へと入っていく。


『ちょっと待って。ルト、今めちゃくちゃ大事なこと言わなかった?』『はい?何がです?』


『色が……分からないって』


『……ええ。死んだ時から、僕の世界は白黒の灰色の世界ですから。って……言いませんでしたっけ?』


『聞いてないよ。……そっか。もしかして、だから《イデア》が見えないのかな?』


『……イデア?』


 聞き慣れない単語に、僕は眉をひそめた。


『ほら、この粒。世界中に漂ってるやつ。みんな魔力とか言ってるけど、私にはもっと細かくて、キラキラした情報の欠片に見えるんだよね』


 イルの視界を通して、僕も周囲を見る。だが、そこにあるのはただの空気と、舞い上がる埃だけだ。


『あぁ、それ……。そういえば、以前そんなことを言っていましたね。魔力よりも高解像度な、根源的な力……』


 僕は思考を巡らせる。僕の悲願である蘇生魔法タム・ゼラを完成させるためには、何かが足りなかった。それは、《大いなる五つ》である《天光の結晶》と《地緑の結晶》を使って失敗した苦い経験から、明らかだった。


『あぁ、でも殆どが透明のやつだから……色とか関係なくて……』


 イルが何か呟いているが、僕は更に思案を深める。イルを蘇生させた時と術式は同じ。そして、その魔力には同じ《大いなる五つ》を使っている。同じ条件で失敗するということは、以前の成功が偶然だったということ。ただ、魔法発動の初期段階の現象は発現しているから、おそらく魔力の操作が上手く出来ていないのだと考えていた。


 そして、今、彼女の言葉で、一つの仮説が立てられた。

 魔力ではなく、《イデア》とやらを正しく理解すれば……あるいは。


『なぜ、今まで黙っていたんです?僕はずっと、魔術の真理に辿り着くための情報を探していたのに』


『あはは……だって、少し前のルトは、すごく不安定で、邪悪だったから。そんな力のこと話したら、何するか分かんないし、話したくなかったんだもん』


『……君が情報を出したり控えたりするほど狡猾こうかつだとは思いませんでしたよ』


 僕は呆れつつも、少しだけ感心していた。彼女なりに、僕の危険性を天秤にかけていたというのか。


『で、今の僕には話してくれるんですか』


『うん。最近のルトなら、大丈夫かなって。優しくなってきたし』


 イルは試着室で、僕の鼻先を指先でつつくような仕草をした。気恥ずかしさに、僕は顔を背ける。


『でも、話すって言っても、ルトは色が見えないんだよね……。まあ見えなくても、ほら、この辺。私の指の先にある透明な粒。漂ってるやつ。イデア』


 彼女の意識が、何もない空間の一点を指し示している。そこには確かに「何か」があるらしい。


『……どんな視力してるんですか。野生児ですね。まったく見えませんけど』


『見えないかぁ。たぶん、ルトのタム・ゼラを完成させるのに、結構重要な要素だと思うんだけどなぁ。イデアって』


『イデア……ですか。それは正式名称なんですか?聞いたことのない魔術用語ですが』


『あはは、私が勝手に言ってるだけ。響きがきれいじゃん』


『……そうですか』


 僕は短く答え、思考の海へと深く沈んでいった。相変わらずの感覚派。だが、彼女は、呪文を唱える事すらせず、魔法的な事象を発現させている。それは詠唱破棄ですらない。もっと根源的に異なる方法で……それも、闘技大会クレイヴァートの時のように、大規模かつ緻密に。


 それはとても人の成せる技ではない。そんな彼女が言う《イデア》なるもの。

 ならばそれは、僕が目指している《全知の領域》――母様が到達したであろうその真理の鍵であることは、間違いなさそうだ。


 しかし、であるからして、僕は絶望せざるを得なかった。


 笑い事ではない。彼女の言う「イデア」――色彩の世界に住むものが視認できる、世界の構成要素。もし、それが魔術の深淵に至るための必須条件だとしたら。

 色を失い、灰色の世界に囚われた今の僕には、それを観測するすべがないということになる。


 それはつまり――僕がどれだけ足掻こうとも、この手で「蘇生魔法タム・ゼラ」を完成させることは愚か、母様の至った高み《全知の領域》には、永遠に到達できないという可能性を、あまりに残酷な形で突きつけられた瞬間だった。


(……いや、考えるな。今はまだ)


 僕は湧き上がる絶望を無理やりねじ伏せる。思考を中断させるように、衣擦れの音が聞こえてきた。


『ねぇルト。私の身体、見てるでしょ?』


『見てませんよ!』


『じゃあなんで赤くなってるの?』


 僕は慌てて身体を見回した。


『あはは、ルトは色わかんないじゃん』


 まんまと嵌められた。重苦しい思考から一転、からかわれた屈辱に頬が熱くなる。僕は黙って彼女の身体の動きを操り、仕返しをする。


『って…いたたた!!ちょっと抓らないで!』


 狭い試着室の中で、そんな馬鹿げたやり取りをする。その無邪気な声に、僕は一時だけ、深淵への恐怖を忘れることができた。


 ■ ■ ■


「……どう?変じゃない?」


 会話が途切れ、着替えを終えたイルがカーテンを開けて姿を見せる。その瞬間、僕は用意していた小言を、喉の奥で詰まらせた。


(…………)


 その暗色のドレスは、彼女の透き通るような白い肌と、流れるような蒼髪を見事に引き立てていた。余計な装飾はない。だが、それ故に彼女自身の素材の良さが――人間離れした、神秘的なまでの美貌が、暴力的なまでの説得力を持って完成されていた。かつて王宮で数多の貴婦人を見てきた僕でさえ、息を呑むほどの。


『……ルト?ねぇ、やっぱり変?』


 不安げな声で、僕は我に返る。そうだ。僕には「色」が見えない。彼女のドレスが何色なのか、その瞳がどれほど鮮やかなのかを知る術はない。けれど、灰色の視界の中でさえ、彼女は発光しているかのように眩しかった。


 僕が復活するためには、この彼女に頼るしかない。そんな打算的な思考が、彼女の美しさを前にして、塵のように吹き飛んでいくのを感じた。


『……背筋を伸ばしてください。猫背になっていますよ』


『厳しいなぁ』


 僕は精一杯の虚勢で、動揺を隠した。


 ■ ■ ■


 試着室の中、大きな姿見の鏡の前にイルが立つ。


 鏡には、着飾った美しい少女が映っている。だが、その隣に僕の姿はない。当然だ。僕は肉体を持たない、ただの亡霊なのだから。


『んー、なんかここ、跳ねてない?』


 イルが鏡の中の自分に向かって――正確には、僕の気配がするであろう自分の肩のあたりに向かって、話しかけてくる。彼女の視線は、鏡に映らない「虚空」を、確かに愛おしそうに見つめていた。


 その光景が、胸を締め付ける。世界カガミは、僕を映さない。彼女の隣には誰もいないのだと、残酷な真実を突きつけてくる。


『……少し、髪が乱れていますね』


 僕は無意識に、手を伸ばしていた。その乱れた一房を直そうとして。あるいは、その美しさに触れたくて。僕の半透明の手が、彼女の髪に伸びる。


 しかし。


 僕の指先は、彼女の髪を、何の手応えもなくすり抜けた。触れられない。どれだけ近くにいても、どれだけ心を共有していても、物理的な干渉だけは叶わない。そこには、生者と死者を隔てる、永遠のような距離があった。

 指先に残るはずの感触の代わりに、虚無だけが通り過ぎていく。その当たり前の事実が、浮き足立っていた心に、冷たい水を差す。


(……ああ、そうか。僕はもう、ここにはいないんだ)


『あれ?やっぱり跳ねてる?』


 イルは僕の行動に気づかず――あるいは、気付かないふりをして――自分の手でペシンと髪を押さえた。彼女の手は、温かそうだった。生きている温もりが、そこにあった。


『言うこと聞かないんだよねー、この触手』


『……触手じゃなくて、今は髪ですよ』


 彼女の間の抜けた言葉に、切なさが少しだけ紛れる。僕はふっと息を吐き、いつもの調子を取り戻して告げた。


『……悪くない。オリアンの隣に立っても恥ずかしくない出来です。これなら、英雄の威光を損なうこともないでしょう』


 そう。彼女の隣に立つべきは、実体を持った「英雄」だ。亡霊ではない。


『本当!?』


 イルがパッと花が咲くような笑顔を見せる。


『やった!ふふ、ルトもたまには役に立つね!』


 鏡越しに向けられる、屈託のない満面の笑み。それは、灰色の世界で唯一輝く、どんな宝石よりも眩しい光だった。


『たまにはって……。本当に、調子が狂う』


 僕は誰にも聞こえない声で独りごとを言い、照れ隠しのように視線を鏡から逸らした。これ以上見ていれば、触れられないその手を、それでも掴みたくなってしまう気がしたから。

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