S-139 「あぁ、素晴らしい」
バイレスリーヴ/潮風通り/【視点:幽霊王子ルト】
元首の館に戻ると、執務室から苦悶のうなり声が漏れ出ていた。扉から中に入ると、オリアンが書類の山に埋もれ、頭を抱えていた。
「……ザーラム共和国の斥候が増えている。巨大海門を封鎖した方がいいのか、防衛網の隙間を突くような動きだ……」
彼はブツブツと独り言を漏らしている。
「サフラヒルを属州から切り離し、貨幣価値を操作して市場を動揺させた。だが、敵の国力は底堅い。戦力差はまだまだ縮まらない……」
机の上には、大陸地図と無数の報告書が散乱している。陸路は封鎖すべきか。敵の航路はどうか。冬を越すための補給物資は十分か。積み重なる課題と、迫りくる大国との軋轢。オリアンの細い肩には、一人の青年が背負うにはあまりに重すぎる責任がのしかかっていた。
部屋には護衛もいない。僕は実体化させた声で、彼に話しかけた。
「一人で考えるものではありませんよ、元首閣下」
「うわっ!?」
オリアンが椅子から飛び上がり、目を白黒させる。
「ル、ルト……?イルも……いつの間に」
「つい先程です。貴方が書類と睨めっこをして、彫像のように固まっている間に」
彼はイルが近づいたのにも気付かなかったようだ。相当、根を詰めていたらしい。そのイルと言えば、
「ん、これ貰うね」
「あ、どうぞ……」
机の端に置かれていた上等な葡萄酒のボトルを手に取ると、コルクを指で弾き飛ばし、そのままラッパ飲みを始めた。トクトクと、良い音をさせて喉を鳴らす。
「ぷはーっ!執務室で飲む葡萄酒は最高!」
「はぁ……。はしたない。仮にも一国のトップの執務室ですよ」
僕が呆れてたしなめるが、オリアンにはそれを気にする余裕すらないようだった。彼はげっそりとした顔で、再び椅子に沈み込んだ。
「……お見苦しいところを。ですが、正直限界です。今の状況、完全に許容量超過です」
オリアンが嘆く。
「議会や『黒き監視団』の皆さんは優秀ですが、毎回お知恵を借りるわけにもいきません。それに、今の問題は軍事、経済、物流が複雑に絡み合っていて……」
彼が頭を抱えているような、複合的な要素がパスタのように絡み合った複雑怪奇な問題。彼のような博識な者であっても処理しきれない、国家運営の「毒」。
「……イル。出番ですよ」
「へ?あ、はいはーい」
僕が声をかけると、イルは飲みかけのボトルをドンと机に置いた。先ほどまでの気の抜けた表情が消え、その黄金の瞳が冷徹な輝きを帯びる。彼女は抜けている様に見えて、一旦本気になれば情報処理能力は凄まじいものがある。イルはオリアンの机に散らかっている書類の束を手に取ると、パラパラと無造作にめくり始めた。
『国境警備隊月報』『南方海路の貿易収支』『鉄鉱石の輸入推移』……。
読む、ではない。彼女の視線が文字を捉えた瞬間、情報は意味として分解され、彼女の脳内へと吸い込まれていく。数百枚に及ぶ書類を瞬く間に読み終え、彼女は小さく鼻を鳴らした。
「なるほどね。……オリアン、面白いことになっているよ」
「え?」
「斥候が増えているのは『偵察』が主じゃない。『脱走兵』を捕まえるために監視を強めているんだと思う」
「だ、脱走兵……?」
「バイレスリーヴが仕掛けた通貨安が効きすぎて、ザーラムの兵士への給料が石ころ同然になってる。だから彼らは士気が崩壊寸前。これ、見て」
イルは報告書の一点を指差した。
「ザーラム内の村で、食料の強奪が増えてるでしょ?軍が補給できてない証拠。だから……」
イルが淡々と、しかし淀みなく説明を始めた。複数の報告書から矛盾点を洗い出し、敵の真の意図を看破し、最適な一手を提示する。
まさに、情報を喰らう怪物。彼女はこんな感じで、オリアンの執務室にあるこの国のあらゆる情報を喰らいつくし、咀嚼し、そしてそれをオリアンに餌(助言)として与えている。
オリアンが必死にメモを取り、その顔に驚愕と感嘆の色が浮かぶ。
「すごい……!そうか、ここを繋げれば、敵の逆手に取れる……!」
大筋の政策決定を行い、矢面に立っているのはオリアンだ。
だが、僕からすれば、彼女がオリアンという「英雄」の皮を被って、国そのものを操っているようにしか見えない。彼女自身にその自覚がないのが、なおさら恐ろしいところだが。
イルの黄金の瞳が、妖しく輝く。その瞳に見つめられたオリアンの目が、吸い込まれるように虚ろになり、そして熱狂的な光を宿した。
「……あぁ、素晴らしい。それで行きましょう、イル」
オリアンがうっとりと呟く。それは、頼れる参謀に向ける信頼というよりは、絶対的な支配者の託宣を受けた信者のような、どこか狂気を孕んだ響きだった。




