S-137 「底なしの『欲望の穴』です」
サフラヒル総督府/法の間【視点:世界(観測者)】
かつて悪法の限りを尽くした総督府の「法の間」は今、革命の熱気と戦場の焦燥が渦巻く作戦司令室へと変貌していた。
「――東部戦線、第3防衛隊より伝令!ザーラム正規軍の増援により、一時後退を余儀なくされました!」
「南部は持ちこたえています!鹵獲したバリスタが効いているようです!」
巨大な卓上の地図を囲み、怒号のような報告が飛び交う。サフラヒルを奪還したレジスタンスたちは、救世主アストンを象徴として結束し、面目を潰されて本気になったザーラム軍の猛攻を、薄氷の差で凌ぎ続けていた。
その卓の片隅で、アストンは疲労の色を隠せない顔で、しかし真剣な眼差しを二人の男女に向けていた。
「……というわけで、戦況は依然として予断を許しません。サファルさん、ヴェナさん。どうか引き続き、興行団の力を貸していただけないでしょうか」
アストンの懇願に対し、派手な衣装の男――サファルは、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「おいおい、アストン君。俺たちは『興行団』だぜ?戦争屋じゃあない。それに、この前の総督府制圧で、十分に仕事はしたはずだが?」
「それは……そうですが」
「それに、次の興行地も決まっててね。キャンセルするには、それなりの『誠意』が必要になる」
サファルがニヤリと笑い、親指と人差し指で硬貨を作る仕草をする。アストンが言葉に詰まったその時、横合いから革袋が投げ入れられた。
ジャリ。重苦しい音が、石の卓上に響く。
「これでどうです?向こう半年分の『貸し切り公演料』としては十分かと」
涼しい顔で革袋を投げたのは、元ザーラム財務官、ワキールだった。サファルが袋の口を少し開け、中身を確認すると、口笛を吹いた。
「ヒューッ!さすが元財務官殿。話が早くて助かるねぇ。……ヴェナ、どうする?」
「……ん」
仮面を外したヴェナが、無表情にコクリと頷く。彼女の瞳には、金への執着よりも、かつての同級生であるアストンを放っておけないという色が微かに滲んでいた。
「交渉成立だ。乗りかかった船だ、最後まで付き合ってやるよ」
サファルがアストンの肩を叩く。その光景を、周囲のレジスタンス幹部たちは複雑な表情で見つめていた。彼らの視線は、サファルたちではなく、金を出したワキールに向けられている。
「……おい、本当にあいつを信用していいのか?バージェスの懐刀だった男だぞ」
「この国の通貨を暴落させたのも、あいつが絡んでたって噂だ……」
囁かれる疑惑と敵意。だが、ワキールはそれを柳のように受け流し、むしろその空気を楽しむように、優雅に葉巻をくゆらせていた。
(……フフ。心地よい緊張感だ)
彼は、かつて自分が心血を注いで拡大させたザーラムという巨人を、今度は自分の手で解体している。その背徳的な興奮が、彼の冷え切っていた情熱を再び燃え上がらせていた。
(私は生まれ変わったのだ。10年前、この国を成り上がらせた時の……あのヒリつくような高揚感を、もう一度味わいたい)
彼は、己の才覚だけを武器に、混沌の波乗りを楽しんでいた。
「ご心配なく。この資金は、全て『敵』から巻き上げたものですから」
ワキールは、レジスタンスたちの疑念を一蹴するように語り出した。
「総督府の地下保管庫に眠っていた大量の『ラクリマ』。あれを全て、裏ルートを通じてザーラム本国の貴族たちに売りつけました。彼らは今、禁断症状で言い値でも買いますからね」
「ラクリマ……。あの島から仕入れているものですよね」
アストンが顔をしかめる。その言葉に、サファルの表情から道化の色が消え、鋭い殺気が宿った。
「ええ。ザーラムでは製造できません。王国から得た大量の軍資金と引き換えに、『あの島』は黄金衆という生体兵器と、ラクリマという毒をバージェスに与えてくれるのです」
ワキールの説明に、サファルが吐き捨てるように言った。
「『世界神教団』の総本山……。偽善の皮を被った、狂信者達の巣窟だ。思い出したくもない」
「……んッ」
ヴェナが、自分の腕を強く抱きしめる。そのローブの下にある肌には、金色の神経が醜く這い回っているはずだ。内海の中央に浮かぶ隠された聖地。そこは特殊な海流により、通常の航路では到達できない地図にも記されていない場所。
そんな幻の島で、彼らは人体実験の検体となり、人としての尊厳を奪われ、代わりに異能と「青い丸薬への依存」を植え付けられた。
「貴方は……その仕入れに関与していたのですか?」
アストンの問いに、ワキールは首を横に振った。
「いいえ。あれは執政官直々のルートです。私ですら、あの島との交渉の席にはつけなかった」
「……だったら話は早い。あの豚野郎……執政官一人をぶっ潰せば、ザーラムも、あの島とのパイプも崩壊させられる」
サファルが拳を握りしめ、憎々しげに言った。だが、ワキールは静かに、しかし冷徹にそれを否定した。
「いいえ。……執政官を決して甘く見ないほうがいい。彼の言動は欲にまみれ、浅はかに見えますが……それは彼が、我々を含めた他者など、この世の全てを『玩具』としてしか見ていないからです」
「……玩具?どういうことですか?」
アストンが尋ねる。ワキールは、かつて一度だけ垣間見た主君の深淵を思い出し、声を潜めた。
「私は一度だけ、見たことがあるのです。酒と女と金に溺れる、あの道化の仮面の下にある……『執政官の真実』を」
ワキールは、思い出すだけで寒気がするかのように、自らの腕をさすった。
「あれは……人間ではありません。人の皮を被った、底なしの『欲望の穴』です。覗き込めば、こちらの魂まで吸い込まれてしまうような……純粋な、虚無の怪物なのです」




