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S-135 「視(み)てた」

バイレスリーヴ、崖下の監獄【幽霊少年ルト視点】


 地下深くの岩盤をくり抜いて作られた監獄は、カビと排泄物、そして絶望の臭いで満ちていた。

 鉄格子の奥からは、粗野な罵声や、理性と品性を欠いた挑発の言葉が、汚水のように絶え間なく溢れ出している。


『……やれやれ。人間の掃き溜めとは、かくも醜悪なものですね』


 僕はイルの視界を共有しながら、心底うんざりとしていた。

 だが、その汚泥の中を歩くオリアンの背中は、驚くほど真っ直ぐで、揺るぎない。かつての彼なら、この場の空気に当てられただけで気絶していたかもしれない。

 オリアンは、最奥にある独房の前で足を止めた。


 そこには、かつての冒険者ギルド会長、アドホックが静かに座していた。かつての覇気は影を潜め、憔悴しきっているが、その眼光だけは未だ鋭さを失っていない。


「……何の用だ、元首殿。私を嘲笑いに来たか」


「いいえ。貴方に、会わせたい人がいます」


 オリアンは看守に鍵を開けさせ、アドホックを連れ出した。

 無言のまま連れて行かれたのは、監獄の一角にある面会室。扉が開かれる。

 そこに立っていたのは、白と空色の法衣を纏った、一人の女性。


「……父さん」


 アドホックの足が止まった。その目は見開かれ、唇がわななき、呼吸すら忘れたように固まる。

 5年もの間、焦がれ、探し求め、国を危険に晒してでも救い出したかった最愛の娘。


「……ウィ、クトリア……か?」


「はい。……ただいま、父さん」


 ウィクトリアが駆け寄り、薄汚れた囚人服の父を抱きしめる。アドホックは、崩れ落ちるように膝をつき、娘の背中に腕を回して、子供のように泣き崩れた。

 僕とイル、そしてオリアンは、その光景を扉の陰から見守った。


「…まさか、こんな結末が用意されているとは。…あの時、私は君に負けてよかった」


 ひとしきり泣いた後、アドホックは涙で濡れた顔を上げ、オリアンを見つめた。その瞳には、敗北の悔しさなど微塵もない。あるのは、深い感謝と、眩しいものを見るような敬意だけだった。


「結末と言うにはまだ早いです。アドホックさん。この国の危機に、手を貸してもらいたい」


 オリアンはアドホックに手を差し伸べた。


「…この私に、できることがあるなら」


 その手をアドホックは迷いなく握る。


「今の貴方のその姿……。かつて臆病者と蔑まれた青年が、これほどまでに精悍で、慈愛に満ちた元首になるとは。……私は、自分の不明を恥じるばかりだ」


「僕も、貴方の強さと覚悟に敬意を表します。……積もる話もあるでしょう。後は、任せましたよ」


 オリアンは短く告げると、ウィクトリアに目配せをして部屋を出た。

 彼女は、黒き監視団の新メンバーとして、父の「監視」を担うことになる。ただ、あの二人の絆があれば、心配はいらないだろう。


 廊下に出ると、再び罵声の嵐が僕たちを迎えた。オリアンとイルは、ひときわ騒がしい牢の前で足を止める。


「おいコラァ!何見てんだ優男ぉ!こっから出してみろ!喉笛噛みちぎってやる!!」


 鉄格子をガンガンと揺らし、唾を飛ばして喚き散らす男。全身に刺青を入れた巨漢。その目つきは狂犬そのものだ。


「あれ……どこかで見た気が……彼は?」


 イルが首を傾げる。


「《猟犬のボルバ》です。ブーア一味の筆頭冒険者でしたが、ラクリマ所持と暴行の常習犯で投獄されています。腕は立ちますが……性格に難がありすぎて」


 オリアンが困ったように眉を下げる。戦力としては欲しいが、制御不能な猛獣。それがオリアンの評価だ。


『……僕からすれば、ゴミ以下の人間ですが』


 僕は冷ややかに評した。知性も品性もない。ただの肉塊だ。


『じゃあさ、ルトが思うように更生しちゃう?』


 イルの思考が、悪戯っぽく、けれど絶対的な響きを持って伝わってくる。


『……僕の幻妖魔法では、短期の記憶や認識を歪めることしかできませんよ。根本的な人格矯正までは……』


『大丈夫。そこは、私がなんとかするから』


 イルの言葉と共に、彼女の深淵から、底知れぬ魔力が僕へと流れ込んでくる。それは、僕の魔術を「人の領域」から逸脱させる、劇薬のような増幅剤。


『……やれやれ。最近のキミは、僕なんかよりもよっぽどたちが悪い』


 僕は苦笑しつつ、詠唱を開始した。

 詠唱中、イルの白く細い指元が視界に入った。そこに、昨日まではめられていた《大いなる五つ「地緑の結晶」》は既に無い。


 何故なら、僕の「蘇生魔法タム・ゼラ」に使い、またしても失敗に終わったから。

 彼女を蘇らせた僕の魔法。今となっては、その効果は懐疑的だ。

 彼女は「ルトに教えてもらわないと使えない」と言っているが、もしかしたら、彼女なら、僕が教えるまでもなく、完成された《タム・ゼラ》を使えるんじゃないだろうか。


 ―――ルトには見えないの?この世界を作ってる、小さな粒


 彼女の言葉が頭をよぎる。

 見えない。そんな粒。

 もしかしたら、それが見えない僕には、魔法を完成させる術がないのかもしれない。

 となれば…彼女の力を借りればどうか。今のように。

 鉄格子の向こうで喚いていたボルバと、彼には見えない筈の僕の視線が交錯した。


「あぁン!?なんだその目は……あ、あ……あ……?」


 ボルバの動きが止まる。怒りに歪んでいた表情が、蝋が溶けるように滑らかに抜け落ちていく。瞳孔が開き、白目が濁る。

 数秒後。ボルバは、糸が切れたようにその場に立ち尽くし、虚空を見つめたまま静止した。


「……オリアン。彼はもう、大丈夫だよ」


 イルがにっこりと笑って振り返る。


「え?……あ、はい」


 オリアンは狐につままれたような顔をしたが、深くは追求しなかった。

 周囲の牢にいた囚人たちは、急変したボルバの様子を見て、悲鳴すら上げられずに震え上がっている。


「…あいつが?」


「やべぇ……あの女、何者だ……」


 これだ。このタガが外れた効果が、僕がたどり着けない領域に行ってしまった彼女の魔法だ。こんな簡単に人の精神を作り直せるなんて…

 散々人の心を操ってきた自分でも、イルの力を借りて使った自分の魔術の過ぎた効果に僅かながら恐怖を感じた。


 そんな僕の気持ちをよそに、オリアンとイルは、満足げに隣の牢へと移動していく。その後ろ姿を、立ち尽くしたボルバが、焦点の合わない目で見送っていた。

 そして、ポツリと。口元を緩め、誰に聞かせるでもなく、静かに囁いた。


「…………てた」


 その言葉は、監獄の冷たい空気の中に、不気味な染みのように溶けていった。


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