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S-134 「待たせましたね。……では、始めましょうか」

バイレスリーヴ/潮風通り【視点:世界(観測者)】


 内海から吹き付ける湿った風が、熱を帯びた石畳を撫でていく。かつては穏やかな活気に満ちていた潮風通りは今、これから始まる戦争への高揚感と、生活が一変する予感にざわめいていた。


「おい、その剣の研ぎ具合はどうだ?錆びてやしねぇだろうな!」


「馬鹿言え!国家最高位クエスト(グランド・オーダー)だぞ!孫の代まで語り継がれる大戦だ、新品を卸したわ!」


 通りを行き交う人々の目は、不安と期待がない交ぜになり、キラキラと輝いている。

 若き元首オリアン・ワードベックの大演説。

 あの魂を揺さぶる言葉は、停滞していたこの国の人々の心に火をつけた。かつて「引きこもりの臆病者」と侮蔑していた市民たちは今、彼を「雌伏の賢者」と称え、その知性を見抜けなかった自らの不明を恥じると共に、彼が提示した破格の報酬――金貨25枚という夢に突き動かされていた。


 そんな狂騒のただ中を、一組の冒険者パーティーが歩いていた。彼らは《カエル団》。かつては見習いに毛が生えた程度の若者たち。


「まったく、どいつもこいつも浮かれやがって。戦争ごっこじゃないんだぞ」


 先頭を歩く剣士、リーダーのエイダンが、周囲の熱狂に呆れながら愛剣の柄を撫でた。その身のこなしには、死線を越えた者特有の落ち着きがある。


「まぁまぁ、エイダン。皆、やる気があるのは良いことだろ?俺たちの国を守る戦いなんだから」


 巨躯の重戦士コーマックが、大盾を背負い直しながらおおらかに笑う。その鎧には、激戦を物語る無数の傷が刻まれている。


「それにしても、あの演説は効いたわね。……あのオリアン様が、あんなに熱い人だったなんて」


 魔術師のアリルが、杖を抱えながら感心したように呟いた。彼女の瞳には、かつてのクエストで味わった恐怖と、それを乗り越えた自信が宿っている。

 彼らは過酷なクエストを経て、急激に実力を上げ、今や中級冒険者としてギルド内でも一目置かれる存在となっている。


「今回の防衛戦で武功を立てれば、俺たちも上級への道が見えてくる。そうすれば、今度の闘技大会ムネラ……本戦出場も夢じゃない」


 エイダンが野心を覗かせる。彼らの目標は、戦場の先にある栄光だ。

 そんな彼らの最後尾を歩いていたエルフ族の弓手、ニーヴの長い耳がピクリと動く。

 通りの脇、露店の陰で、数人の市民が顔を寄せ合い、ポツリポツリと語り合っている。


「……なぁ、聞いたか?オリアン様が信じているという神の話」


「ああ、『深海神ルヌラ』だろう?昔は邪神だなんて言われてたが……」


「今ならわかる気がするんだ。あのお方の、あの底知れない静かな強さは……きっと、深い海の底から来ているんじゃないかって」


「だよな……。俺も最近、海を見ると、なんだか吸い込まれそうな、安らかな気持ちになるんだ」


「ああ。地上の騒がしさを忘れて、ただ深く沈んでいくような……そんな救いがあるのかもしれない」


 ニーヴは、その会話を聞いて、眉をひそめることもなく、ただ静かに瞬きをした。

 かつてオリアンを孤立させた「邪神崇拝」の噂。

 それが今、彼への評価が反転したことによって、「心の奥底に沈殿する真理」として、市民の間に浸透し始めていた。


 それは熱狂的なブームではない。もっと静かで、肌に張り付くような湿度を持った共感。


「……なんか、広まってるみたいね。あの『ルヌラ』とかいう神様のこと」


 ニーヴの呟きに、アリルはふと空を見上げた。


「不思議ね。前はあんなに『気味が悪い』って思ってたのに」


 アリルは自分の胸に手を当て、鼓動を確かめるように呟く。


「今は……なんでだろう。オリアン様があれだけ立派になられた理由が、そこにあるなら……なんとなく、納得できちゃうというか」


「ああ。俺もだ」


 コーマックも、深く頷いた。


「戦いの興奮とか、恐怖とか。そういうのを全部、冷たい水で洗い流してくれるような……そんな静けさが、俺たちにも必要なのかもしれねぇな」


 エイダンは何も言わなかった。だが、否定もしなかった。かつて感じたはずの薄気味悪さが、いつの間にか消え失せていることに、彼自身も気づいていたからだ。

 まるで、最初から心の中にその「場所」があったかのように、その偶像は彼らの意識に流れ込んでいた。


 違和感がないことへの、違和感。それに気づく者は、もう誰もいなかった。

 彼らは、かつて狂信者ダンラが叫んでいた噴水広場を通り抜ける。


 そこにはもう彼女の姿はない。ただ、広場の壁に描かれた『ルヌラの壁画』――人々を飲み込もうとする巨大な触手の絵が、以前よりもどこか優しげに、彼らを見守っているように見えた。


 カエル団の面々は、無意識のうちにその壁画へ一瞥をくれると、吸い込まれるように足を速めた。

 彼らの視線の先には、古びた白い外壁を持つ威厳ある建物――議場ニーヴラフトが、無言のまま街を見下ろしていた。


 ■ ■ ■


バイレスリーヴ/議場ニーヴラフト【視点:世界(観測者)】


 冷ややかな空気が漂う石造りの議場。円卓を囲む七つの席は、久しぶりに全ての主を迎え入れていた。

 上座には、若き国家元首、オリアン・ワードベック。その脇を固めるのは、この国の経済と治安、そして信仰を司る重鎮たちだ。


 商業者ギルド会長ルーガット。冒険者ギルド会長グラース。海運ギルド会長ユーラハン。衛士長官ディナリエル。学園長ダイアナ。そして、ウニヴェリア教会司祭ムスタ。


 謹慎が解けたダイアナが復帰し、新任のグラースが加わったことで、新生バイレスリーヴ議会は完全な形となっていた。

 だが、議題として卓上に上げられた羊皮紙の内容は、再会を祝うような生易しいものではない。


「――戦力確保のための特別施策、『恩赦』について。以上が概要です」


 オリアンが説明を終え、議場を見渡す。提案の内容は、現在監獄に収監されている囚人のうち、戦闘技能を持つ者や、重犯罪ではない者、約100名を選抜し、兵士として前線に送るというものだ。この非常時において、猫の手も借りたいのは事実。だが、それは劇薬でもある。


「待ってくれ、元首様」


 最初に口を開いたのは、冒険者ギルド会長のグラースだった。彼は太い腕を組み、眉間に深い皺を刻んでいる。


「戦力が欲しいのは痛いほど分かる。だが、奴らは罪人だ。シャバの空気を吸わせた途端に脱走、略奪、あるいは味方の背中を刺す……そんなリスクが高すぎる。ただでさえ混乱している街の治安が、崩壊しかねませんぜ」


 囚人たちの顔を知る立場として、もっともな懸念。オリアンが口を開きかけたその時、隣に座る衛士長官ディナリエルが、凛とした声で遮った。


「懸念は尤もだ、グラース。だが、彼らを野放しにするつもりはない」


 彼女の瞳は、静かな光を帯びていた。


「対象となる囚人には、法的誓約による行動制限に加え、徹底した再教育を施す。無論、戦場においても監視を常に付け、逃亡の兆しが見えた時点で即座に『処分』する権限を現場に与える」


 その口調はあまりに合理的で、慈悲の欠片もない。だが、今のこの国に必要なのはその冷酷さだった。


「へっ!長官殿がそこまで言うなら安心だ」


 沈黙を破ったのは、潮焼けした肌を持つ巨漢、海運ギルド会長のユーラハンだ。彼は豪快に笑い飛ばし、机をバンと叩いた。


「それにだ。奴らの大半は、俺の船に乗せて海へ連れて行くことになる。陸なら逃げ場もあるだろうが、板子一枚下は地獄だ。暴動でも起こそうものなら、即、海とキスすることになるぜ?」


「おぉう…海の女神さまの接吻なら喜んで受けたいんだがな」


 教会司祭のムスタが、気だるげに相槌を打つ。だが、その目は笑っていなかった。彼は適当な返事をしつつも、その視線をディナリエルから一切外していない。


「条件をつけさせてちょうだい」


 静かに手を挙げたのは、学園長のダイアナだった。やつれた顔色はまだ戻っていないが、その瞳には包容力のある教育者としての光が戻りつつある。


「彼らが街を歩く際、学園および孤児院の周囲への立ち入りを禁じてほしいの。……子供たちに、戦場の、ましてや罪人の毒気を当てたくはないわ」


「承知しました。制限区域は設定しましょう」


 オリアンが即答し、最後にルーガットへと視線を向けた。老商人は、葉巻をくゆらせながら、遠い目をして天井画を眺めていた。


「恩赦、か。……ならば、あやつも対象になるのか」


「……前冒険者ギルド会長、アドホックのことですね」


「うむ。外患誘致の罪は重いが、その統率力は他に類を見ない。……久しぶりに、会いに行ってやるとしよう」


 かつての盟友であり、道を違えた男。彼を戦場という死地へ引きずり出す役目は、自分しかいないと悟っているのだろう。


「では、採決を取ります。……本案に、異議のある方は?」


 オリアンの問いに、沈黙が答える。全員が、毒を飲み込む覚悟を決めていた。


「可決とします。後日、執行の手続きを」


 木槌の音が、冷たい議場に響き渡った。


 ■ ■ ■


 議会が解散し、議員たちが去った後。残ったオリアンとディナリエルは、何食わぬ顔で議場の奥へと進み、隠し扉を開いた。

 暗い螺旋階段を降りていく。光の届かない地下深く。そこには、地上の議場を模して作られた…いや、地上の議場“が”模して作られたかのような、もう一つの円卓の間が存在する。


「ふぅ……。お疲れ様、イル」


「んー、肩凝った。ディナリエルさんの真似して背筋伸ばし続けるの、結構しんどいんだよね」


 階段を降りきったところで、ディナリエルの姿が揺らぎ、本来の蒼い髪をしたイルの姿へと戻る。彼女は首をコキコキと鳴らしながら、広間へと足を踏み入れた。


 そこには既に、この国の「影」たちが集結していた。

 円卓を囲むのは、黒き監視団の幹部たち。


 闇鍛冶ビヴォール。白鱗の祈祷師スノゥシャと、その背後に控える怪人ヨークス。潜伏の毒棘ゼク・ヴェンと、彼に寄り添う醜女ミセイラ。そして、本来ならディナリエルが座る席には、彼女の代理として銀髪のライカンスロープ、ルガルフが座っている。


「早かったな」


 ルガルフが静かに語りかける。


「ルーガットさんの根回しのお陰です」


 巧みな説明で採決を通したオリアンは謙遜しつつ、迷うことなく、円卓の最奥、最も豪奢な装飾が施された「主の椅子」へと歩み寄った。

 かつては、この場に座ることに萎縮していた青年。だが今は、その足取りに迷いはない。


 オリアンは椅子に深く腰を下ろし、組んだ両手の上に顎を乗せた。その背後にはイルが控え、そして常闇の神デヒメルの石像が、怪しくも荘厳な光を放ちながら彼を見守っている。


 表の議会で「光」の決断を下した彼が今、ここで「闇」の采配を振るう。


「待たせましたね。……では、始めましょうか」


 オリアンの静かな声が、ウーガ・ダールに響く。常闇の会議が、幕を開けた。

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