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S-132 「……ついに来たか」

血の間【視点:世界(観測者)】


「……消えた?」


 血の間の支配者、原初の吸血種ソルフは、自身の感覚器が伝えてくる情報を理解できずにいた。

 たった今、送り出したばかりのエリュトロンの気配。

 それが、死んだのではない。世界から「切り取られた」かのように、唐突に消失したのだ。


「ソルフ様……? 如何なさいました?」


 王妃役のメラハが、凍りつくような沈黙に耐えかねて声をかける。

 ソルフは、虚空を見つめたまま、乾いた唇を震わせた。


「エリュトロンが……消滅した」


「……は?」


 メラハは息を呑み、勢いよく立ち上がった。


「死んだとおっしゃるのですか!? あのエリュトロンが!?」


「黙れ!!」


 ソルフの絶叫が、石造りの広間に反響した。

 メラハは怯え、身をすくめる。だが、彼女の震えはソルフへの恐怖だけではない。

 愛息ヴェルメリオに続き、千年も影に潜み続けてきた最高峰の暗殺者エリュトロンまでもが、あの辺境の小国で屠られた。


 それも、一瞬で。抵抗の痕跡すら残さずに。


(一体……あの国には『何』がいるの……?)


 得体の知れない寒気が、メラハの背筋を這い上がる。

 絶対的な捕食者であったはずの自分たちが、いつの間にか、見えない巨大なあぎとの前に立たされているような錯覚。


「バルロフ!!」


 ソルフは恐怖を塗りつぶすように咆哮した。

 広間の闇に溶け込んでいた美青年、バルロフが音もなく進み出る。


「地上の有象無象どもに号令をかけろ!! バイレスリーヴへ最大兵力をもって進軍せよとな!」


「我が同胞を殺した者を捕らえ、地獄の苦痛を与えよ! 石畳の一枚すら残すな! 歴史からその名を削り取るほどに蹂躙し尽くせ!!」


 目を血走らせ、唾を飛ばす支配者の姿には、もはやかつての威厳はない。あるのは、未知への恐怖に駆られた獣の狂気だけだ。


「貴方、正気!? エリュトロンさえ殺されたのよ? ここは慎重に……」


「私に指図するなッ!」


 乾いた音が響き、メラハが床に叩きつけられる。

 彼女は腫れ上がった頬を押さえ、押し黙った。だが、俯いたその瞳には、服従とは違う昏い光――支配者への失望と、生存本能による計算が宿り始めていた。


「往け、バルロフ。奴らを根絶やしにしろ」


「御意」


 バルロフは表情一つ変えず、恭しく一礼した。

 その涼やかな瞳は、ソルフの狂気もメラハの怯えも映していない。

 彼が見つめているのは、遥か遠く。エリュトロンが消滅したその場所に残る、深蒼の残滓。


(……ついに来たか)


 彼だけが感じ取っていた。

 その影の底から漂う、災厄の気配を。


 ■ ■ ■


ザーラム共和国首都/ザハリア城【視点:世界(観測者)】


 戦略室の空気は、煙草の煙と焦燥感で淀んでいた。

 サフラヒル陥落。フギオ死亡。ワキール消息不明。


 次々と飛び込む凶報に、法務官たちの顔色は蒼白だ。


「コラン村からの生存者の証言……本当なのか?」


「ああ。突然浮上した《黒き帆船》……そこから放たれた合唱魔法の一撃で、拠点が消し飛んだと」


 法務官の一人が震える声で報告書を読み上げる。


 バイレスリーヴの旗を掲げた黒い船。そして、規格外の大魔法。

 それは未知の脅威であり、彼らの理解を超える「不気味な力」の象徴だった。


「奴らは、我々の知らぬ魔術師軍団を隠し持っているのか? それとも、あの船自体に仕掛けが……」


「ええい、憶測で怯えるな!」


 上席法務官が机を叩き、ヒステリックに叫んだ。


「サフラヒルは要衝だ! レジスタンスごときに占拠させておけば、東側への影響は計り知れん。即刻奪還せよ!」


「しかし、国内の暴動も鎮圧できておりません。イッスス、ゼルナム……至る所で火の手が上がっているのですぞ」


「国内すら御せぬのに、外征など正気か」


 口々に交わされる議論は、解決策を見出せぬまま空転する。


 その様子を、部屋の隅で腕を組んでいた男――ザーラム軍総司令官ラーガンが、冷ややかな目で見つめていた。


(図体ばかり肥大化した巨人の末路か。……資金も底をついているのだろうな)


 彼は知っていた。王国からの支援金が、執政官の手によって《黄金衆》と呼ばれる薬漬けの私兵団に消えていることを。


「ラーガン将軍! 貴殿はどう見る!」


 議論に行き詰まった文官たちが、助け舟を求めるように視線を向けてくる。

 ラーガンは地図に歩み寄ると、無造作に駒を掴んだ。


「文官殿らが恐れる《黒き帆船》とやら。……確かに脅威だ。だが、戦争は数だよ」


 彼は、バイレスリーヴの海と陸に、ポツリと白い駒を一つずつ置いた。

 対して、ザーラム側には黒い駒を十個ずつ、山のように積み上げる。


「奴らの人口はたかだか30万。魔術師など、かき集めても百程度が関の山だ。対して我々は、腐っても大国。魔術師だけで千を超える」


 圧倒的な物量差。


 それを可視化された瞬間、法務官たちの顔に安堵の色が浮かんだ。

 彼らは「数」という絶対的な事実に縋り付いたのだ。得体の知れない《黒き帆船》の恐怖から逃れるために。


「おぉ……こうして見れば、圧倒的ではないか」


「やはり小国。恐るるに足らぬな」


 先刻までの悲観論が嘘のように、室内は楽観的な空気(熱気)に包まれていく。

 ラーガンは内心で舌打ちをした。

 この楽観こそが、バイレスリーヴの狙いかもしれないというのに。

 だが、彼にはもう一つ、退けない理由があった。


「今朝、レクイウムの使者より連絡があった。奴ら、侵攻時期を早めるらしい」


 その言葉に、法務官たちの目の色が変わった。恐怖ではなく、強欲の色に。


「なんだと!? ならば、バイレスリーヴを奴らに先取りされるわけにはいかん!」


「そうだ! 我らが先に飲み込み、その勢いで帝国へとなだれ込むのだ!」


 恐怖は貪欲によって上書きされた。

 彼らは決断したのではない。欲望と焦燥に背中を蹴飛ばされたのだ。


「執政官の裁可を仰ぎ、即時進軍だ! イッススの内乱を鎮圧し、巨大海門と内海、二方向からすり潰せ!」


 勇ましい言葉が飛び交う中、ラーガンは静かに地図を見下ろした。

 積み上げられた黒い駒の山。それは強大だが、崩れやすい砂上の楼閣のようにも見えた。


「……今回も頼むぞ、ラーガン」


「……せいぜい、吉報を待つがいい」


 ラーガンは短く答え、踵を返した。


 背後では、安全地帯にいる文官たちが「烏合の衆など一捻りだ」と笑い合っている。

 その笑い声が、なぜか自身の首を絞める鎖の音のように聞こえてならなかった。



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