S-130 「嘘だろ……母さん」
ゼーデン帝国/首都ゼア・ドゥーン/城外の草原【視点:常闇の目ノエル】
帝都の風は、思ったよりもぬるい。
青々と茂る草原に大の字になって、俺は流れる雲を目で追っていた。
指先で魔力を弄び、下手くそな蝶の形を作っては霧散させる。
本来なら、異国の街を散策し、商機の一つでも探るべきだろう。普段の俺ならそうしていた。
だが、今の俺は、指一本動かす気力さえ湧かない。
(……見てしまった)
脳裏に焼き付いて離れない、あの光景。
母さんが欲しいと言っていた土産物の詳細を聞きに戻った、ただそれだけだった。
部屋の前に護衛はおらず、扉はわずかに開いていた。
そして漏れ聞こえてきたのは、普段の冷徹な彼女からは想像もできない、甘く、艶めかしい吐息。
隙間から覗いた先にいたのは、一糸纏わぬ姿の母さん――ディナリエルと、この国のアブソリュート、皇帝ソラス。
二人は獣のように求め合い、愛し合っていた。
あの厳格で、氷のように気高い《常闇の影》が。
言い寄る男たちを氷点下の視線だけで凍りつかせてきた、あの母さんが。
出会って間もない異国の皇帝に、あんな顔を見せるなんて。
(嘘だろ……母さん)
胸の奥が、焼けつくように痛い。
物心ついた時から、孤児だった僕を拾い、厳しくも愛情を持って育ててくれた人。
ルガルフにはからかわれるから隠しているが、僕は彼女を崇拝している。いや、はっきり言えばマザコンだ。
美しく、強く、誰よりもカッコいい彼女に、本気で憧れ、叶うなら結婚したいとさえ思っていた。
その淡い幻想は、皇帝との生々しい情事によって粉々に砕け散った。
「はぁぁぁぁ……」
肺の中の空気をすべて吐き出すような溜息が出た。
会いたくない。次、どんな顔をして母さんに会えばいい?
だが、僕の心を蝕むのは失恋の痛みだけではない。もっと致命的で、恐ろしい事実への気づきだ。
船の中で聞いたゲアラハの言葉が、呪いのように蘇る。
『皇帝ソラスの娘達は、忌むべきエルフの子供』
皇帝の子を産んだのは――母さんなのか?
皇女ジーナの容姿は、肌の色や耳の形以外、驚くほど母さんに似ていた。
そして母さんは、なんの義理もないはずのルガルフを、わざわざジーナの護衛につけた。あれは、自分の娘を案じての采配だったとしたら?
(これが事実なら……それを知ったことが皇帝にバレたら……僕は消される?)
背筋を冷たい汗が伝う。怖い。震えが止まらない。
ルガルフなら、こう思うだろうか?
いや、あいつは強い。泣き虫だったあいつは、いつの間にか僕を追い越し、遥か先を行っている。イルが現れてからは尚更だ。
それに比べて俺はどうだ?
剣の才能もない。魔法も中途半端。母さんとの血の繋がりもない。
ただ人より少し計算が早く、文字が読めたから、ルーガットさんに拾われて「若頭」なんて肩書きをもらっているだけ。
実際、クルーア廃坑の戦いでも、俺はただの足手まといだった。
(全てが中途半端。取り柄のない、空っぽの男)
驚愕、恐怖、そして底なしの虚無感。
思考を放棄し、死んだように目を閉じたその時だった。
ザッ、ザッ。
草を踏む足音が近づき、俺の顔の上で止まった。
「――君、誰?」
目を開けると、誰かが俺を覗き込んでいた。
逆光で表情が見えないが、その輪郭に、俺は息を呑んだ。
「うわ、驚きすぎ。私に失礼じゃない?」
ふくれっ面をした少女がそこにいた。
年の頃は俺と同じくらい。明るい灰色の髪を片側だけ編み込み、灰色がかった青い瞳が俺を射抜いている。
俺が驚いた理由。それは彼女もまた、母さんに――ディナリエルに瓜二つだったからだ。そして…彼女に至っては肌の色まで。
「えーと……第参皇女様であられますか?」
慌てて身体を起こし、居住まいを正す。
彼女は「なんでわかるの?」と言いたげに小首を傾げ、クスクスと笑った。
やはりそうだ。彼女は第参皇女、ティナ・マグ・ファラン。
「ジーナ様にそっくりなので」
そして、僕の母さんにも。
「よく言われる」
彼女は興味なさそうに答えると、躊躇なく僕の隣に腰を下ろした。
皇女が、どこの馬の骨とも知れぬ男の隣に?
「あの。貴方様のお母様の名前は?」
もうどうにでもなれだ。確信が欲しい。
しかし、彼女は露骨に顔をしかめた。
「は? ……出会ってすぐの人に聞くことじゃないよね。無礼」
「……すみません」
「そんなことより。まだ答えてもらってない。君、誰?」
そうだ、聞かれていたのは俺の方だ。
だが、今の俺に名乗る価値などあるのだろうか。
「名乗るほど……価値のある者ではありませんよ」
精一杯の皮肉と自嘲を込めて、スカしてみせた。つもりだった。
「何それ。ダサ。カッコ悪」
ティナは吐き捨てるように言った。
その目は、汚いものを見るように冷ややかだ。
初対面でここまで言われる筋合いはない。だが、黙っているのも癪だ。
「……ノエル。ノエル・マクリーセン。バイレスリーヴの商業者ギルドで若頭をやっています」
「なんだ。それっぽい顔して、結局言うんじゃん。やな感じ」
僕の身分などどうでもいいらしい。彼女はただ、僕の態度が気に入らないようだ。
皇女らしからぬ、あまりに奔放な物言い。
つい、いつもの軽口が漏れた。
「皇女なのに、お淑やかじゃないな、君は」
バシッ!
乾いた音が草原に響いた。
頬に走る鋭い痛み。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
叩かれた? 俺が?
「皇女はお淑やかであるべきだなんて、君の価値観古すぎ。親の顔が見てみたい」
彼女は手のひらを払いながら、冷たく言い放つ。
口より先に手が出るタイプか。ある意味、母さん以上の猛獣だ。
だが、これはまずい。相手は皇族だ。穏便に済ませて立ち去らなければ。
「……失礼しました。皇女様に対する口の利き方ではなかったですね」
バシッ!
反対の頬が弾けた。
「え?!」
「私が皇女だからって、急に話し方変えないで! 気持ち悪い!」
「いや……そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どういうわけ?!」
彼女は母さんによく似た、美しくも冷徹な顔を僕の目の前まで近づけてくる。
逃げ場がない。その瞳に、情けない顔が映っている。
「つ、つまり……」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
「君が……嫌がることを言ってしまったから……それを謝ろうと……」
バシッ!!
「はあ?! なんで謝るの?! 自分の意見ないわけ?!」
頬の痛みが引く暇もなく、三発目を食らった。
理不尽だ。あまりにも理不尽だ。
なのに。
「人の顔色見て意見変えないで! つまんない男!」
「え……やば」
思わず本音が漏れた。
この女、ヤバい。関わってはいけない人種だ。
どうやって逃げる? どうやってこの場を収める?
思考は警鐘を鳴らしている。だというのに。
ドクン。
心臓が、意思に反して早鐘を打つ。
罵倒されるたび、叩かれるたび、身体の奥底が熱くなる。
若干若い母さんのような顔で、蔑まれ、見下ろされると、僕は……。
僕は、責められる趣味なんて、ないはずなのに。
ドクン。
胸の高鳴りは、痛みと共に激しくなっていく。
これは恐怖か? それとも――。




